2005年10月
よく書いたなーと思うし、全国の奇特な方々に感謝いたします。なによりも我社電算室のY氏には本当に感謝する。Y氏の紹介で始め、Y氏にいろいろ教えてもらった事が大変大きかった。ありがたい事だ。
今日は悔しい思いをした。京都今出川ギャラリーでの“ROOTS”さんのコンサート、是非行きたかった。内容を報告していたK氏ブログ、そして我がワブログのNO1ブロガー“くみちょうーさん”のブログを見ると実に“良さそう”ではないか!そして憧れでもある“宮崎学さん”までも来場とのこと、うーん!実に悔しい!!うーん(涙。。。。)
※K氏!あの宮崎さんとのツーショットの写真は羨ましいぞ!!(涙。。。。)
しかし昨日は“一杯一杯”だった。昨日のブログは少し抽象的に表現したが、要は取引を止めるか否かという交渉の事であった。到底許しがたい事が発生したので、勿論上司と相談の結論ではあるが、一つの答えをぶつけに行った。このような後、弱い私はどうしたもんか、厭世的というか、プチニヒリストになる。そうなると何故か土方歳三が頭に浮かぶ。偶然飲みに行った女性との会話で出てきたその名前を、昨日のエントリーで、酔ってぐるぐる回る頭で書いたしだいだ。
私は土方歳三をはじめ新撰組に関しては“大好き”である。中学生よりその手の書物は結構読んだ方だ。しかし、私は新撰組を好きな人達が“大嫌い”である。大抵気持ち悪い。彼らのHPなどを見ると“ゾッと”する時が多々ある。ましてや土方や沖田などのイラストが描かれているHPは目眩が止まらない。新撰組を好きな人ほど“くだらない新撰組像”を持ちすぎである。なんとも仕様が無い“ロマンチシズム”に満ちており悪寒が走る。。。。。
あえてここで土方歳三の略歴や史実内の細かい事象や、諸々の他人が自慢げに紹介している事を焼きなおすつもりは無い。
土方歳三で大事な事は、有史上約5年出現した存在であるという事と、その内容が彼の30~35歳の間の出来事であるという事だけだ。。。。。。。
私個人が彼の人生で、最大のフォーカスをかけるとしたら、やはり近藤勇との決別の瞬間ではないかと思う。池田屋事変やその他畿内の出来事でもないし、会津から東北の転戦でもないし、蝦夷五稜郭そして最期の瞬間でもない、盟友との決別の瞬間だと思う。もし映画にするなら“竜馬暗殺”ではないが、この時を中心に構成を考えると思う。なぜかこの瞬間は案外軽視されている。なによりも重要のはずである。彼の本質的なニヒリズム、そしてニヒリスティックな生きかたはこの瞬間からスタートしている。京都時代もニヒルであったであろうが、それは自身の出自との距離の保ち方ではなかったかと思う。しかし近藤との決別後の彼の思考は、なにをモチベーションにしていたのであろう。よく死地を探してとのくだらないロマンチシズムが蔓延るところであるが、実にくだらないと思う。せいぜい酔った瞬間くらいはその手の夢想はあったと思うが、実際のコマンダーにそんなロマンはあり得ない。
投稿者 junca 30日 21:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 人物
取引上の重要な問題だった。
ある意味キツイ出張だった。
匕首を相手の咽喉もとに晒すような話しだった。この後結果が現われるが、負けるだろうなと思う。でも、一寸の虫にも五分の魂である。かかわっている人間もハッきりしたい部分もあるだろうからこれで良かったと思う。
しかし帰ると相手の親分から電話が入っていた。。。。。。がすれ違い、来週の月曜日に何らかの話しになるだろう。
話しは変わるが仲の良い女性と出張中飲みに行った。その時に何気なく聞いた、理由はないが突如フッと頭に浮かんだので聞いてみた。
「あのな、歴史上の人物と逢わせてやるって言われたら、誰と逢いたい?」
と聞いたところ、何人か言ったが偶然私と二人一致する人物がいた。一人は“明治天皇”もう一人は“土方歳三”だった。
土方歳三。
燃えよ剣。
こんなニヒリストはいないだろう。
つづく
投稿者 junca 29日 23:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 人物
実は今地方のインターネットカフェにいる。そう仕事さぼっているのだ
ここからエントリーをしている。
最初胡散臭い場所かと思って入りづらかったが、なかなか快適である。
へへ。。。
棲家、というテーマでながなが書いてきたが、本質的な棲家とは現世ではないかと思う。
物理的な物の所有ではなく、今生きているこの世が究極は人間にとっての棲家ではないかと思う。司馬遼太郎の高杉晋作を書いた小説[世に棲む日々]というタイトルが示す事が本質なじゃないかと思う。
ある刀剣商の方と以前お話したときのことが凄く印象に残っている。
現在何百万や何千万する刀は、もともと大名や名のある武士が所有していたものが大半だ。それは、鎌倉、室町と何百年も前からあるもので現在に伝わっている。その間いったい何人の人間が所有したんだろうか?その間の履歴が整然としているものも来歴としてあるだろうが、大半は不明瞭のはずだ。そう考えると仮に現在持っている人にしても究極の本質は”預かっている”だけではないのか?
私もそう思う。。。
現在借金(ローン)を返しながら棲んでいる我が家も、究極は借家でしかない。いやローンを払い終わっても、現世という観点からは所詮借家でしかない。
立って半畳寝て一畳とはよく言ったものだ!それが、人間の与えられた本質的棲家じゃないだろうか。。
世に棲む日々。。。
投稿者 junca 28日 11:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | スタイル
あまりにもの大差に憤りがおさまらない!!うーん。。。。いやな1日になった。。。
さて気を取りなおし、当時の団地生活のその後だが、とにかく私にとっては団地生活は快適であった。しかし子供が生まれ、二人目まで生まれることになり、いよいよ手狭に成って来た。
そろそろもう少し大きな所へ引越ししないといけないと考えていたとき、偶然なのだが一戸建てを買えるチャンスに恵まれた。
こんなことを言うと生意気で不遜だが、私個人は別段欲しいとは思っていなかったが、周りがやいやい煩くなったので、なんとなくその流れの中に身を置いたようなものだった。
そう!このときから私は“ローンレンジャー”になったのだ!!25年の“労役”を嫁と母親に科されたのである(涙。。。。)
しかし資金的に中途半端だった。新築では足りないし、中古だと内容的には選べるのだが、その当時資金の範囲内で希望の立地に優良な物件が無かった。というように“帯に短し襷に長し”だった。
結果的には中古物件で選ぶことにした。一つだけ条件があった。私の両親の近くに住むということだ。実家で同居は物理的に無理なので、せめて近くに住めということだった。孫ができ、とにかくすぐに会える環境というのが両親の絶対条件であった。
なかなか住宅選びとは難しいものであった。。。
結果的には1年位かかった。
家を買うと決めてから約1年間は週末ごとにチラシを見、気になる物件はすぐに不動産屋へ電話し見せてもらっていた。ここは良いけどここは駄目というように絶対100%はあり得ないのである。もちろん新築で希望どうりに造ってもらったら当然100%に近い満足を得られるが、所詮人が長年住んでいた中古物件である、そんな希望に近い線で探しても無理なのである。
そして不動産屋も様々だ、親切な人もいれば熱心でウルサイくらいの人もいる。また正反対にいいかげんで横柄な人間も沢山いた。なによりも気に入らなかったのは、中古として販売する意思を不動産屋に伝えており、買いたい人が見に来るという前提にも関らず清掃を怠っている人が沢山存在したことだ。買ってもらいたいという感じがまったく無いのである。買う側からするとこれは非常にキツカッタ!
“もうちょっと綺麗にしておけよ!”
又不動産屋も凄いのが結構いた。ある日これが良いのではないかと不動産屋に電話を入れると、何処何処で待っていてくださいと返答、指定の場所で待っていると、現れたのは黒塗りのBMW7シリーズ!!なかから出てきたのは、安岡力也のような体格と顔、ダブルのスーツに腕にはロレックスの金無垢、そして、ぶっといブレスレットそして無口。。。。。
投稿者 junca 26日 22:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | スタイル
なんとか復調したみたいだが、やはり手術の必要があるみたいだ。
かなり難しい手術のようで、医師も患者もかなり慎重な決断を迫られるみたいである。生死に関ることではないが、結果の如何によっては障害が残る可能性があるとの事、なんとも悲しいことだが精一杯気力萎えることなく乗り切ってもらいたい。。。。。。。。切に念じるのみである。。。。。。。
いや!彼は必ず元気に戻ってくる!それ以外の絵は私には無いし、あり得ない!!
彼の棲家、我らが棲家に必ず帰ってくる。。
さて、当時の私の話に戻すが、どうにか滋賀県瀬田の住まいを引き払い、京都南部の府営団地に越してきたのだが、団地そのものの環境は悪く無かったが、5階建ての5階の部屋で、エレベーターがないのである。。
ちょうどこの頃、KYOちゃんが嫁のおなかの中におり、階段の上り下りが嫁にはかなり苦痛だったみたいである。健嬢な私でも実に億劫な部屋の場所となった。
しかし総合的には私にとっては、実に快適な団地ライフであった。今までの中では結構気に入った環境であった。周りとの関りも希薄で、部屋もこじんまりとしており、なんでも手の届く位置にあるような、ズボラな私にはちょうど良いスペースであった。何よりも“安い”これが一番だ。基本的には私にはものすごく向いた住居となった。そして変な話しだが、物心ついた頃より一軒家だったので、団地のような集合住宅ははじめてで、私にとっては興味津々楽しくてしょうがなかったのだ。そして5階で正面玄関からしか人が侵入できない構造が実に不思議であり、セキュリティーを考えても実に良いように感じた。
実家に住んでいるとき、空き巣、泥棒等の事件が近所で起こると、子供心に寝ているとき不安でしょうがなかったのを記憶しており、そのトラウマに対して、団地の構造には少し安心感が芽生えたのでした。
ある日団地に帰ると嫁が悔しそうな顔をしていた。
「ただいま。どうしたの?機嫌悪いの?」
「そうよ!」
「なに?俺なんかした。。。」緊張が走る!!!ひょっとして黙ってヨーグルトを食べたのがばれたか!!
「NHKがとうとうきたん!ばれたんやんかぁ!」
「えー今まで払ってなかったン!」
「当然やん!なんで払うの!」
今だと例の問題以降当然の行為のようになって社会問題化しているが、当時はそうではなかった。。。
こんな嫁だが、あるとき家に帰ると玄関に見慣れない缶が3缶隠すように積まれていた。
投稿者 junca 25日 21:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | スタイル
大抵貧乏暮らしがほとんどだったが、気兼ねなく時間を過ごすことができた。
一種の“ちびっこ”“梁山泊”だった。。
そして大学を卒業し就職すると学生時代のような外泊はとんと無くなった。
しかし結婚する段になり最後まで苦労したのが住まいだった。
私も嫁もお金が無かったので、もちろん賃貸にするつもりだったが、その中でも公団(団地)を希望していた。とりたてた根拠はないが、家賃や環境を考え、なんとなくいいんではないかなぁーと漠然と考えていた。。
結婚が決まって以降、私は仕事中に数回公団の募集に応募しにいっていた。しかし一向に希望する物件に当選はしなかった。結構のんびりしている性格で“なんとかなるやぁー”みたいにお互い過ごしてきたが、いよいよ結婚式が近づいても住まいが決まらないのは深刻な問題となっていった。
ある日親父が見かねて、知り合いの会社社長に相談し、その社長が現在使っていない家屋を提供してくれるよう話しをつけてくれた。その社長は凄くいい人で「若いんだからお金を貯めるつもりで遠慮無く使ってくれ」との事でした。そして家賃は3万円しか取らなかった。しかしどんな物件かモロモロを確認せず、とにかく時間が無かったので、その好意にすがることにした。
それから数日後、お借りする家を休日に見にいかせてもらったのだが。。。。。
滋賀県瀬田の小高い山の上で、通勤を考えると、バス・JR・バスという結構ハードな通勤を余儀なくされる地域だった。そして肝心の家屋は敷地約70坪の我々が到底住めるような代物ではなく、なんと部屋数も7~8部屋存在した。
嫁と、「すこし贅沢すぎないか?分不相応を絵にかいたような。。。」
しかし時間的にどうのこうの言えるタイミングではなかったので、とにかく住むことになった。。。
新生活が始まったのだが、やはり会社までは遠かった。行きはまだしも、帰りは時間の連絡が上手く行かなかった。当然JRはそうでもないのだが、遅くなるとバスが無いのである。一本逃すと一時間後みたいな気の遠くなるようなダイヤで、結構駅前で茫漠と時間を過ごす事が多かった。。平均2時間くらい帰りの行程にかけていた。。。。
どうも私は自立心に欠けるのか、積極的に便利さを構築するという観念が欠如し、流れの中で物事を考えるクセがある。しかしそれも自分の問題だから、まぁいいっか!とすぐになってしまう。いいのか悪いのか良くわからないが、他人が見ると“どん臭い”としか思わないだろうなぁと他人事のようにぼーっと考えるだけである。
投稿者 junca 24日 23:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | スタイル
どうも年上の子供と同部屋で、いじめられたわけではないが“揉まれた”みたいだ。男のこの世界では大切なことなので良い経験が出来たのではないだろうか。
さて
初めてN君の下宿に泊めてもらったが、その後いろいろな人間の
部屋に泊めてもらう。しかし大抵同じような環境だった。銭金だ。。
しかし2回生から3回生に上がる時分ちょっとしたブームがおこった。それは数名で一軒家を借りてしまうというものだ。決して綺麗なコンドミニアムのようなものではなく、築50年以上の木造建築というのが相場で、環境そのものは今までと大して変わらないのだが、共同生活というあらたな世界がそこにはあった。
私は直接参加したわけではないが、頻繁にその下宿には出入りした。伏見の南部、宇治川の北側にある古い住宅街の奥まったところにその一軒家はあった。通りからは見えず、路地を入っていくと木造2階建ての建て物が存在した。
大家さんは会ったことはないのだが80歳くらいの老婆で、家賃を取りに来るときだけ顔を合わすらしい。とにかく古い家で、部屋の壁が土壁でボロボロ所々剥げ落ちているのだが、その中かから建築に使ったのだろうか?古い新聞が出てきた。見ると戦前の新聞で“ナチス”がどうだとか教科書でしか見たことの無い記事がリアルに載っていたのだった。とにかく何時倒壊してもおかしくないボロ屋だった。間違いなく築70年以上は経っていたのではないだろうか?
一体どうやってこんな場所を探し出したのか?良くわからないが、とにかくこの一軒家で、
例のN君をリーダーに寝屋川出身のI君、三重県桔梗が丘出身のH君の生活がスタートする。彼らはこの一軒家を「まりも会」とよび一種のメンズクラブのようなものを設立した。
なぜ「まりも」なのかは未だに謎だ!
私も足しげくこの一軒家には泊まった。特段何をするわけではないのだが、妙な居心地の良さがあり、常に誰かがいるという環境だったので結構な時間を過ごした。たしか常に鍵がかかっていなかった様に記憶している。そのはずである捕られるものがなにも無いのである。
しかし時と場合によっては大変重宝する場所であった。学園祭の諸々の準備や、模擬店の仕込みや様々な活動の前線基地であった。本当はイケナイ事なのだが、模擬店でアイスクリーム屋をやることになり、皆でいろいろ相談したが、屋台にインパクトが無いという問題に突き当たった。ある晩安酒を煽っていつもの様に「まりも会」へ帰る途中、商店街のアーケードを歩いていると、遠目にアイスクリームの形をした大きな置物が皆の目に飛び込んだ。所謂ソフトクリームを売っているところに必ずあるソフトクリーム型のオブジェ?だ!!
投稿者 junca 23日 23:04 | コメント(0) | トラックバック(1) | スタイル
しかし私は出勤だ。
よくよく考えると今月はまだ1日しか休んでいない。
やっと明日久しぶりの休みになる。トラブル等で携帯電話が鳴らないことを切に願う。
今日朝出かけるときに嫁から
「パパ!言ってなかったけど、U君今日お泊りやねん!」
「へー、どこに?」
「自治会で“友愛の丘”に行くねん!」
青少年の研修施設で、飯盒すいさんが出来る所らしい。。
「おいU君!誰といくねん!」
「大親友!」
「?誰?」
「ええやん!内緒!」
どうも他人には言えない“大親友?らしい”。。。
気をつけていってらっしゃいマセ。。。。。。U君様。。
よくよく考えると私は、出張やその他バイトや旅行で家を空けることが度々あったが一人暮しはしたことがない。家から学校も会社も通える所で、下宿する必要性がまったくなかったのである。
しかし大学時代の友人の1/3は下宿しており、それ以外も一人暮しにあこがれ下宿する人間がごくわずか存在した。
私はそれらの下宿によく“おじゃま”した。
はっきりいって“めちゃくちゃ汚かった”。。。。
今のようにワンルームマンションもさほどなく、大体マンションなんかに下宿しているやつはほとんど存在しなかった。大半は学校が斡旋するアパート(?)風ボロ家で、家賃が当時1~3万円代で、風呂無し便所は共同というのがスタンダードであった。。
大学に入学してすぐに親友になったN君の下宿に招待され、同じく友人のT君と酒をもって行った。駅から20~30分くらい歩くのだが、だんだん山の中に入っていき、竹林が鬱蒼と道を覆うような、なんとも不気味な雰囲気の場所に、ぽつーんとアパートらしきものが建っていた。
「おい!あそこかな?」
「多分。。。」
「うーん。。。」
アパートの彼の部屋の玄関に立ち、ドアをノックすると中から声がした。
「おう!遠慮せんと入ってきてくれ!」
ドアを開けると、6畳一間の部屋であったが、真中に置いてあるテーブル以外は部屋中ごみだらけで一体どこに座ればいいのか。。。。。
「なにを遠慮しとんねん!さぁ入って入って適当に座って!」
テーブルの上に座るんだろうか。。。。(N君は神戸出身の豪快さんなのだ。。)
※銭金級である。。。。
適当にごみを除け座るところを確保し、ささやかな酒宴が3人で始まった。楽しかった。。。
そうこうしていると、私は便所に行きたくなりN君に便所の場所を聞いた。
「おう!外でて、あの竹やぶの手前や!」
「えーあの暗いとこかぁ!」
投稿者 junca 22日 20:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | スタイル
「大学に進学する前にお父さんの会社にバイトに行かされたやろ」
「そういうたら、そんなことあったなぁ」
「なんでやとおもう?」
「???いや、わからん、なんで?いじめたかったんとちゃうん、ぐーたらしてたから!」
「あほ!」
母親から教えてもらった理由はこうだった、
父親曰く、私は大学に行き、まじめにしていれば少なからず事務職になり、結果として能力の有無に関係なく人の上に立つ。しかし社会の大半は親父自身が経験した要素でもあるが、地べたを這いつくばるような環境で仕事をする人が沢山存在する。そして社会はそういった人達の力で動いている側面が現実的には多数存在する。そういう人間の一つでも階段の上に立つものが、そういった人達の苦しみや傷みを理解しないで存在してはいけないと親父は考えていたらしい。だから僅かでもキツイ肉体労働を経験させ、いつか自分が人の上に立つ時、感じてもらいたかったらしい。そして人の上に立つ人間になってもらいたかったらしい。
だから執拗にこの時のバイトだけに限らず、学生時代を通して肉体労働以外のバイトは決して許してくれなかった。家に帰らないことも、学校をサボることも、留年したことも、女の子から様々な罵声の電話が入っても、父親は知っていても私は1度も怒られた事はない。ただこの肉体労働の件だけは母親を通じての厳命だった。
全然知らなかった。。。。。
でもそのように自然と理解していた、間違いなく私の会社にも日中暑い中寒い中肉体を使って働いている人達がおり、場面場面で土下座に近い形で過去幾度となくお願いをしてきた。
そして普段の気持ちの問題が一番だということも経験の中で感じていった。そして多分それは少なからず肉体を酷使する仕事をホンの一時でも経験し、そういった仕事に従事する人達との交わりがあったからこそ理解できる素地が養われたのだと思う。。。
人に物事を教えるとは...私も部下が出来、事あるごとに叱責を繰り返してきたが、それは怒っている教育してやっているという思いあがりと自己陶酔でしかなかったのではないかと自己嫌悪に陥る。そして人が教えを受け、それが花開くなんて実際には長い年月がかかり、教えた者も即時結果を求めることのできな事、いや、求めてはいけないことを遅まきながら自分を通して理解できたような気がする。。。
うつむいて歩いていて、ある時勾配が急になり、自分が歩いているところが大きな山だと気付く。そして戻る事のできない状況まで来ている事に気付き顔をあげると、まだまだ頂上は遥か彼方、40歳を向える自分の道程は五合目。
投稿者 junca 22日 02:29 | コメント(0) | トラックバック(1) | 子供
母親が喜んだ課長昇進のとき、実は真剣に退職し独立を考えていたらしい。一生懸命やっても報われないと感じた事と、友人たちが華々しく独立し裕福になる姿に嫉妬があったらしい。
母親曰く、
一生懸命やりすぎたのか、出来たからなのか良く解らないが、仲間との不協和音を度々おこし精神的に参っていて、正直あきらめと開き直りが交差していたみたいだ。
そして何よりも“高卒の叩き上げ”というハンディが学歴学閥という壁を乗り越えられない
現実が存在した。そんな時分に私は青年期に突入していたのだ。。。しかし実際にはまったくしらなかった。その当時そんな内容を聞いたところで大して気にも止めなかったと思う。
そんな親父に突如大きな転機が訪れる。それは私が大学を留年して卒業する時分だ。
コツコツと結局サラリーマンを続けていたのだが、ある時大手通販会社のロジスティック戦略営業に参加することとなり、同業大手数社との競争となったらしい。はっきりいって親父の会社が日本一の規模を有しているのだが、国営に近い存在がゆえに機敏さに欠け柔軟性に欠けるきらいがあったのは否めなかったと思う。しかし最終的には親父率いる営業部隊が勝利を収め、支店年商の10%以上(数億)の商いとなったらしい。そして単発の営業売上ではなく恒常的営業成果として本社よりかなりの評価をもらったみたいである。たしかにその時分頻繁に遠方へ日帰り出張を繰り返していたのを覚えているが、物心ついたときからあまり変わらない感覚だったので気にならなかったし、家族も数年後にこの時の事を知る。
今だから解ることがある、この様な大きな案件はもちろん会社のプロジェクトとして動くのだろうが、局面局面はリーダー個人の判断が大きく求められるし、最終段階の闘いでは、後方部隊は勝利の夢想をかなり肥大化させており、失敗が許されない精神的窮地にリーダーは追い込まれる。しかし親父は見事に勝利をおさめる。
この成果が大きかった、自分が望まなくても他に比肩しようのない成果だったため、一足飛びの出世を果たす。そして報奨に近い形で傍系会社の社長に納まる。やはり最後までラインではなかったのだが、それはそれで凄みのある出世だと私は思う。
投稿者 junca 21日 06:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 子供
本人から自分のことを聞いたことがほとんどない。
母親や妹からあとになって聞いた事の方がはるかに多い。
私が思春期から青年へと移行するなかで、親父もまた
仕事の忙しさが増していったのを記憶している。今でも覚えているのは親父が40歳前後の時分に、課長へと昇進したことを母親が喜んでいたのを何故か鮮明な記憶として今ももっている。
私がその時分に感じたことは、率直に言って、この人は何が面白くて年がら年中家にもロクにいないで仕事しているんだろう?という疑問のみであった。数年後社会に出る自分を考えたとき“こんな風にはなりたくない”という気持ちが肥大していったのは間違いない。
そして実際に話す機会も少なく、正直疎ましい存在であった。ひょっとすると馬鹿にしていた部分もあったと思う。
大学に進学する手前の春休みに、突如無理やり親父の会社のバイトに行かされた。母親からの厳命だった。春先だったのでこの時期の運送屋のバイトといったら“引越し”だ。いろいろやらされた、庁舎移転、個人宅、官舎等様々な人の引越しをてつだった。昇進し勇躍移動をする家族、降格なのか左遷なのか人生の岐路的家族の移動、大量の税金を投入した新庁舎へ公務員様の下僕のような移動手伝い、本当に様々だった。とにかく初日から体が板のようになった、母親に愚痴をいってバイトを止めたいと申し出たが、絶対に許されなかった。
バイトの最中は親父と接触することはほとんどなかったが、たまに遠目に見かける事があっったが、作業員と同様に引越しを手伝っていた。不思議だった、親父はその当時確か次長職
でスーツ着て事務所にいるものだと思っていたが、違ったのである。約3週間くらい大学の入学式手前までバイトに行かされた。
そのとき本当に迷惑に感じたし、なんでこんな事をやらんといかんのか正直むかついた。でもかなりキツイ仕事で危険も一杯あるし、現場のおっさんの気性は荒いし大変な職場だと言う事は十分理解したが、だからといって親父は凄いとか、感謝とかいう気持ちはまったくなかった。あったのは“やっと終わって清々した”という感情だけだった。。。。
大学をどうにか卒業し(留年したのだが)、今の会社に入社した。最初に待っていた仕事は納品をはじめ肉体労働の雑務だった。スーツなんかまったく必要ないし、友人や後輩に見られたら恥ずかしいような姿で毎日肉体労働に従事した。家に帰るとぐったりで、すぐに居間で寝る毎日であった。
投稿者 junca 20日 02:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 子供
多分30歳を過ぎたくらいだったと思う。
8時9時前だと早いほうだ、大抵10時くらいになる。
理由は良くわからないが、とにかく遅くなった。
必然的に子供との接触は朝の約20分くらいで、
出張などに行くと1週間で1時間くらいしか接触していない。
昨日も帰るとMDウォークマンが充電してあった。
嫁に聞くとkyoちゃんのお誕生日プレゼントだったらしい。
とにかく家のことも子供のことも良くわからない。
たまに早く帰るときにコンビニに寄りプリンを買うくらいしか
子供と接触していない今日この頃だ。。。。
そう考えると私の父親はもっとひどかった。
とにかく家にいなかった。しかし浮気やそういったことではなく、とにかく仕事で家にはいなかった。
先日親父の年齢を考えると、何と68歳になっていた。
たしか数年前に定年退職と還暦祝いを家族でしたような記憶が微かにあるが、まさかあの親父が68歳とは!孫とニコヤカニ遊ぶ好々爺たる親父にいまだに違和感があり、なぜか年齢を考えると不思議でならなかった。
いや。。不思議というより認めたくないのかも。。。。
私の親父は昭和12年生れ、身長173cm。この時代の男性にしては大きいほうだと思う。
若い時分は野球で鳴らし、結構体格も良い!本人からは一切聞いたことはないが、祖母や母親曰く、結構、野球で上を目指していたらしいが、小さい時分に怪我をした指が災いし、結局高校までで挫折したらしい。
とにかく家にいなかった。モーレツ社員が当たり前の時代で、私の親父も例に漏れずその権化たるものがあった。旅行などは記憶をたどると、親父の会社の釣りクラブ?に子供ひとりでついていったのと、小学校5年に2泊3日でいった海水浴くらいで、あとは数回初詣に平安神宮と八坂神社につれて行って貰ったくらいである。
元旦も朝の11時には家をでて、お客なのか会社のメンバーなのか良くわからないが新年会に出かけていた。
海水浴は親戚の叔父さん一家についていっていた。だから私は小学校時代親父と映っている写真がない。父親参観は1回来たくらいだ、たしか小学校3年だったと思う。
ほとんどいないから、たまに来てくれたり、つれて行ってもらったことが異常にコアな記憶として残っている。。。。
でもそれが当たり前だと思っていたし、不思議ではなかった。
親父は運送会社の営業だった。
日曜日しか休みの無い時代に日曜日も休んでいなかった。あまりの忙しさに嘘のような話しだが、パジャマのズボンを脱ぐのをわすれ、パジャマのズボンの上からスーツのズボンを履いて数回出勤していた。
投稿者 junca 18日 22:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 子供
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よろしくお願いします。。
しかし昨日の朝、大変な事が起り、携帯に電話が入った。
信頼している部下M君が倒れた。
彼は以前より持病をもっており、体と相談しながらというような
ペースで仕事をしていたが、爆弾が発火したようだ。
最近彼をみていると、充実した仕事振りと実力を着々と貯えて
行く姿があっただけに実に残念だ。
ガッツがあり、ともすればやりすぎてしまうきらいはあったが
なかなかの突貫精神をもっており、なにか新しいことには
常に私の傍らで助けてくれた。
少し無理をさせたのかもしれない。。。
とにかく経過を見るしかないのだが、入院・手術は避けられない
ようで、年内の仕事復帰は無理な様だ。。。。
はやく元気に戻ってきてもらいたい。
しかし好事魔多しとは良く言ったものだ、なかなか順風には行かない。。
なんだかなぁ。。。
少し体調が悪いので体を気遣って?というより、わざと今日は遅刻する事にした。
投稿者 junca 18日 08:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | think
しかし、ほぼ予定通りの成果ができ
今日の仕事次第でまずまずの成功に至れる。
あと少しである。
仕事で疲れているというより完全に”飲み疲れ”である。
肝臓も胃もかなり疲労困憊だ。今日はおとなしくしておきたいが
なかなかそうもいかないだろう。。。。
この間ネットもテレビもほとんど見ていない。このブログも久々に見た次第だ。
朝久しぶりにテレビを見るとさまざまなニュースが報道されていたが
私が気になったのは、郵政法案反対議員のほとんどが賛成にまわった
ということだ。
あえておかしいとかということは言わないが、議員個人について考えると
いかなる罵詈雑言を浴びても、長い人生の中で局所の筋目を通すより
捲土重来を期すことのほうを優先すべきだと考える。
民意をみて、その結果によって考えをかえる、どうかと思うが、
問題は民意に反する行為をおこなっていた事こそが最大の問題だ。
そして闘争のポイントを読み違えていることが個人にとって大きな問題だ。
どうでもいいのだが、一番気になるのは”木っ端”な議員の進路ではなく
私としては”古賀”議員の今後の去就が一番きになる。
彼ほど間抜けはいないだろう。。。。。
彼としてはどのようにして再度権力の中枢に擦り寄るのであろうか?
その姿と方法を見聞きしたい。。。
投稿者 junca 16日 09:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | think
4年前から結構頻繁に来るようになった。
不思議な街である。人口はおおよそ30万くらいだが、日本一面積が小さく
川がほとんどない。そのため水を必要としない小麦の栽培が盛んで、結果
現在流行りの”さぬきうどん”が誕生した。日本一うどんを食う街である。
一応昔から四国の玄関口として栄えた?らしい。その恩恵の根拠は橋が
なかったからである。東京関西中部の資本が四国を押さえるときに先ず
本州に一番近い高松に拠点を置いた結果、支店経済と呼ばれる商圏が
確立したのである。その商圏確立に呼応するように、この地域の三越は
なんと70年まえから存在し、街の人たちにとっては結構”誇り”なのである。(笑)
とにかく”みょーな”プライド”が高い地域で、基本的に名古屋に匹敵するぐらい
ケチな地域だ。値切り方も半端ではない。よく関西はとか、いろいろその地域
の商売特性を語るが、私がしるかぎりこの地域は”とてつもなく”エグイ!!!
わたしは、そのエグイ人たちを〔讃岐原人〕と呼んでいる。
明日も讃岐原人発掘の仕事が待っている。。。。。はぁ。。。。
投稿者 junca 13日 18:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅

土方歳三
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棲家
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好事魔多し
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