2009年06月07日(日)
報道≒世論
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先日、無期刑の人が以前のDNA鑑定の不備が認められ
事実上無罪となり釈放された。
この事実に関して、なにも私はとやかく言うつもりはない。
冤罪が晴れてよかったと思う。
しかし、連日報道されるこの結果に対する内容にはどうも
疑問が膨れ上がるのであった。
どの報道機関も、この事件の杜撰な結論の導き出し方であったり、警察や
司直の怠慢をつく内容が多いのであるが、私自身はその結果を何度も何度も
正直見たくはないのである。確かに今後、なぜそうなったのかなどの検証が
でてくるのであろうが、本来、私としてはなぜ彼がそのような事件の容疑者
となってしまい、このような結果に陥ったのか、そこを知りたいのであった。
因果の関係から考えれば、DNAという鑑定が杜撰であった、精度が低い、もしくは怠慢な姿勢や保身という様々な関係があったとしても、じゃ、一体事件は誰だったのか?そしてなぜこの人がこれほどまでに濃い容疑を被せられたのか?という起点の疑問を晴らしてくれるものが何一つないのが実に不思議に感じられたのであった。
よかった、よかった!も確かに大事な事柄なのであるが、本質は、事件はまだ生きているという事なのではないか?という部分も冤罪の問題と並行しているわけであり、同時にそのことをやはり考えていく必要があるように強く感じたのであった。
誤解を招くような事をあえて書けば、日本の古の言い回しからすれば、、
火のない所に煙はたたぬ・・という事がある。この冤罪の方を決して疑うわけではないが、しかしこの事件の本質は初動がこの疑いから始まっていることは間違いない。
だからなぜこの人は疑われたのか?という疑問が実は私の頭の中では大きな割合を占める。
それと同時に、DNAとか様々な問題などは、この最初に仮定した疑いが整合しなくなることによって様々な問題が噴出したわけであり、真実はなんだ?という懐疑点を生み出したに過ぎない。。となればやはり最初がどうだったのかというのが一番の問題点であると私は思うのである。それと同時に、この疑いがなんの根拠だったのか?それが我々普通に市民生活を送るものからすれば実に興味が高いのは間違いない。それはいつ自分もこういう虚偽によって根拠付けられ冤罪の憂き目に遇うやしれないからである。
一体、普通の市民のどの部分が、事件と関連し、ここまで執拗な疑いをもたれるのか?それを明白にしなくてはならないのでは?と私は感じるのであった。
どうも今のままの報道では、この部分を抉り出すこともなければ検証しようとするものもない。ただ目に見える、警察や司直の問題個所ばかりを流している。。
これが世論に適う報道内容であり、市民が知る権利に適う報道なのであろうか?とつくづく考えてしまう。
問題は警察及び検察、裁判所という公平をもって冷徹な現実判断を行わなくてはならない機関が穿った思い込みを現実にすり替えたという事ではないのか?それをしてしまった根拠とは何なのか?またその対象となってしまった人物とは一体なぜそうなったのか?
あえて言えば、この冤罪に陥れた人物に対して、差別的な睥睨した観念を持って取り調べに臨んだ、これなのではないだろうか?真実か否かはしらないが、ある文書に知能指数のことや、務めていた幼稚園の園長の証言“あやしい視線で幼児を見ていた“というのがあったが、これがある種の行動根拠になったのは間違いないだろう。そこから考えても、事実と社会的な歪んだ固定観念を捜査の中に混濁させていた事に対する言い訳はできないと思うのである。ここの部分をなぜ報道では追及しないのか?この人が疑われたのはなぜなのか?私はこの部分がどうも釈然としない。
今も真犯人は生きているのであるから。。
なんと言うのか・・報道が事件の本質を変容させる、、そんな気がしてならない。報道の効果に適う内容・・報道内容こそが本当に過半の人間の感情を総括する“世論”となるのであろうか?
実に疑わしくいかがわしいような気がする。。
確かに報道により事件が真実に動くこともあるであろう、しかしここで言っていることはそのようなことではなく、事件とはやはり様々な角度の見方があると思うのである。この事件を裁いた側の人の意見もほんの少し流されていたが、当時の自分たちの判断に間違いはないというモノであったが、どうもこれも現在の報道のありようでは、彼らの言い分など悪者の戯言のようにしか捉えられない。しかし本当にそうなのであろうか?
この報道が作り出した世論に関して実に残念な事が最近あった。
民主党の代表である小沢一郎が辞任した件である。
この件に関する報道の%の構造がどうも私には納得がいかない。
おかしい感じがするのである。
正直に申し上げれば、私個人としては小沢一郎には辞めて欲しくは無かった。今現在もその考え方は変わりない。その根拠とは、やはり政権を交代し、この国の刷新を望むからである。そのためには多少金権体質であろうが、毒があろうが、破壊する力をもった人物に委ねなければ突破しないだろうという考えである。ましてや以前権力の中枢にいたとなれば当然相手の手の内も知っている訳であり、その具体的結果として数々の選挙、特に直近の参議院選挙では大勝を収めたのではないかとも思うのである。
ここで実に不思議なのは報道の世論調査である。
小沢一郎の西松建設の問題が噴出した際、世論調査の結果は辞任すべきだと言うことが大半を占めたという事である。それと同時に、この人は結局古い自民党政権体質を持った金権政治家だという非難である。。
しかし、?とならないだろうか?
小沢一郎の本質など誰もが知った事ではないのか?最年少で自民党幹事長に
登りつめ、その後離党、意に沿わない連中とは常にもめ事を起こし、党を解体してきた。異名は壊し屋・・これは誰もが知っているかれの素性なのではないのか?とつくづく思うのである。そんな彼を知った上で、民主党の代表として世論は許容してきたのではないのか?と思うのである。ここにきて正直瑣末な問題ごときで、民意であると推測される政権交代という大事を引き換えにするのであろうか?私にはどうも納得いかない。小沢一郎がダーティながらも民主党が高い支持率をこれまで誇ったのは、それが政権交代を望む世論と私は合致しているからだと思うのである。
彼に求められた世論の趨勢とは、また今も世論の本質は刷新であり現状打破
であったことは間違いないだろう。
その具体的形とは、自民党からの交替であることも私は間違いないと思う。
だからこその小沢一郎だったのではないのか?と思うのである。
ここがどうもなにか操作された匂いを感じざるを得ない。
本当に世論は、小沢一郎の西松建設問題にそんな明確な判断を求めたのであろうか?これが本当の世論だったのであろうか?
西松建設の問題とは、誰が見てもこの時点で出てくる性格としては、引きずり下ろすための罠でしかないことは大半が認知している。
しかし、なぜ世論に従ったのであろうか?
私は小沢一郎で戦ってもよかったのではなか?と今も考えている。せめてもの幸いは選挙対策というポジションを与え、鳩山の傀儡たらん位置に留めたことであると思う。あえて傀儡であろうとする意気込みを私は鳩山にも感じた。ここは大一番の選択をして党内掌握できたのが実に大きかった。大事を見据えた選択であり、気骨を感じた。
どうであろう、本来中途半端な裁定ではないか?これから小沢一郎を外せなどという世論はどこにも報道の中には見当たらない。どういう事だ?本来純粋なものを求めるなら、民主党の要路から外せとなる筈ではないか?・・・
なぜか世論と呼んできたものが求めるものと違う結論ではないか?
党首辞任とは全ての要路から外れろという意思なのではないのか?
なんか滑稽な感じすらするのは私だけであろうか?
しかしながら・・・
こんなことでは、世論に沿った形でしか政治などできないという事にしかならない。しかしもっと情けないのはこの世論とは、報道関係が独自に調査したものでしかないということであり、実は客観的な判断材料としてはたして的確なのか否か分からないものでしかない。
そんなものが示す%で国政が左右されるのか?と思う。
消費税を上げると言えば
必ず世論調査は“NO”という答えしか得られないだろう。
しかし、これも世論に沿う形で国政を進行させるのか?となりは
しないだろうか?
もっと言えば世論などと言っているが
先般、トヨタの会長が意に沿わない報道内容に対して
広告代を削るぞ!と、、とても世界に冠たる大企業のトップとは思えない、ゴロツキのような発言をしたのが思い出される。
今の報道に本当に純粋な世論を把握できる能力があるのだろうか?
民主党が政権交代すれば、劇的な官僚支配からのパラダイムシフトを敢行すると宣言している。そうなると既得権益がかなり瓦解することは間違いない。そうなるとどうであろうか?
報道などと言っているが、本質はスポンサーにものも言えない存在なのでは
ないのか?ということと、、、、、
ある種の利得の側に向いていなくてはいけない部分があり、真実と乖離した
ものを生み出す性質があるのではないだろうか??
と、、、考えているのは私だけではないハズだ!
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