2008年10月11日(土)
imagine
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このブログで織田信長のことを書いたことがあった。
信長という人物の捉え方が近年かなり変化したということを中心に書いたのだが
もともと私などが小学生から大学に至るまでに持った信長像とは、残虐であり唯我独尊で傲慢、その後、天下を引き継ぎ、社会を安定に導いた人物である秀吉・家康に比べ、人間的に冷酷ということのみの印象が強烈であった。
それ故に人生最後、その人間的欠陥部分についていけなくなった部下、それも親衛隊長に近い存在の光秀に殺害されるという流れが、彼への印象として形成されていた。
そういう印象を持った最大は何かというと、彼の行った比叡山の焼き討ちや、その他もろもろの表面的な印象としての悪逆な行為が、本やメディアにおいて彼の人物像としては常に中心に語られ、それらの事象面から受ける印象を中心としたキャラクター設定を施したものが大半を占めていたからではないか?と思うのである。
背景であったり、そこに行き着くまでの彼の功績であったり、考え方などを丁寧に取り上げて考察し、その独特なキャラクターの優位性を伝えるものが皆無とまでは言わないまでもほとんどなかったことが信長=残虐という印象を形成した理由であったと思われる。
どちらかというと家康や秀吉の方が、なんらかの社会的な構造、例えば企業社会や何かのコミュニティーにおける方向性を示す際の例や、人材活用術等を例える場合よく名前が出てきたような気がするのである。
そういった場合決して信長が比較対照となることはほぼなかったと記憶する。それは、やはり
あまりにも常人からかけ離れる思考や行動原理が、ほとんどの人間の範ならしめないという意味で即座に対象外という結論を生み出し、結局、特別な存在として永い間、歴史上一人浮いていたような感じであった。
しかし数年前から事情は大きく変わった。
世の中が大きな変革を求める時期にさしかかった時分、秀吉や家康にその基本を求めても
なんら答えが生れないということを感じ始め、もっと劇的な手法、根本、起点の改革が必要なのではないか?という大きなうねり、欲求が走り始めた。その欲求が求めた先こそが、これまでまったく取り上げられなかった信長だったのではないかと思うのである。
信長には維持拡大や保守でない斬新な革新性がある。
劇的な変革を導いた革新性。
信長の革新性とそのイメージは、これまで表面に覆われていた悪逆な部分の印象を思い切って剥がし、その内側を改めて丁寧に覗くことによって初めて得られたというより、発見されたというような感覚がこの近年の信長イメージの根幹をなしているような感じである。
なぜ今頃という疑問が当然あるのだが、それは意外とこれまで大衆が求めなかった要素というよりは、なんとなく極端すぎるキャラクターがそれをさせなかったように思うのである。
しかし、それら謎でほって置かれたベールをめくると、そこには意外と表面的な部分とは全く違う周到に計画された考えであったり、かなり集積されたデーターを元にだした結論であったり、なによりもそれまでの既成概念からの発想とはまったく違う逆の志向性となる斬新なアイデアによる決断がふんだんに存在していたのである。
それらの部分が、後世悪逆非道と捉えられた行為と実は密接な関係性を持っており、そこから得られる結果が実は筋が通った施策として大局的に浮かび上がってくることに気づく。
決定的なのは、リーダー像としてこの人物ほど決断実行を具体的に検証できるサンプルが今までなかったのだと思うのである。協調を中心として考える社会が迎えた強烈な閉塞感から脱出を希求するとき、一人のカリスマ的リーダーの存在を求める、そういった社会背景にピッたりはまったのが信長であった。
それまでの協調的社会において一人のカリスマ的な部分というのはそれほど重要さを持たない
のだが、それが一気に閉塞感を迎えると、なんとか脱出したい、そのために今までと違う
感性を求めるとなると一つの明確なフラッグが必要になる、それが信長であり信長の革新性になったような気がするのである。
しかし、その革新的なアイデアが実は後世になり平準化し、誰がという部分が分からなくなるくらいスタンダードなものとして存在していったため、もしくは後の後継者である秀吉・家康が上手くアレンジし協調性をもって政治的に確立したため、最初のアイデアマンとしての信長の存在が完全に消しこまれ、そのため彼、信長には、それらの手段として行った数々の行為のみが強烈な印象として残ってしまったのではないだろうか?
いずれにしても、変革を求めるとき、これほど革新的な歴史上の人物はいないという結論が
あるときから主流となり、非道な部分よりも彼の革新的な考え方の方が、人物像の印象として
大きな割合を持つようになった。
特に私は郵政解散時における信長の印象とは、まさしくその時点の政治家が意図的に下敷きにしたと思うのである。それは少し劇場型であるが桶狭間の闘いを想定しており、同時にこの時点が信長のイメージの変革ピークを迎えた時期ではないか?と感じたのである。
もともとの変革的イメージの出発点はバブル崩壊後の荒廃した経済環境の中で、歴史そのものを、それまで中心に捉えていた戦闘の考察から、各大名の経済施策を中心に捉えなおした点からスタートしたと思うのである。国の形という、国つくりの部分である。
闘いの勝者が後の歴史を作るのであるが、しかしなぜ戦闘になったのか?であったり、戦闘をするための準備は?であったり、そのための資金源は?またその運用は?そして最大は、戦いに勝利し、その後にそのリーダーが理想とする国家は?という根本的な興味がその時分の経済が荒廃した社会からは最大の興味として浮かび上がり、またそれら戦国武将を含む民族の先人達の国家観や現実的な問題をどう解決したか、また発展をどのように導き出したかなど、それぞれの迎えた問題に対する考え方を学ぼうという機運が高まったのがスタートだったと思うのである。
そこから得たものとは、基本は同じじゃないか?大名が統治する枠組みとは現代社会の会社として置きなおしたり、政治的には党であったりという、より具体的な存在を投影した場合、その本質的な仕組みは案外近いというよりも同じじゃないか?と気づくのである。そして戦国時代、統一的統治者が生まれる前の混沌とした世界が、バブル崩壊後の社会と共通の風景を感じたのである。
その場合の本質的類似点とは、勝ち負けを考えれば、負けは即、死滅に繋がる。これまで右肩上がりに繁栄を続けてきた社会、頑張ればそれなりの見返りが期待できる平均的社会から、それだけでは見返りが期待できないという難しい社会構造が姿を現し始め、インターネットやその他の社会インフラが革命的に進み始め強烈な弱肉強食の過酷な環境が戦国トーナメントという、生きるか死ぬか渾然一体となった環境と大きく印象が被った。
そういった過酷な環境と類似的感性を持つにいたったのは、その当時の社会環境からであることは間違いない。
そしてその環境からそれぞれの集団が考えたのは、負け無い為ではなく、勝つためには、勝ち残るためには、混然とした環境から誰か明確な社会的枠組みと明確な方向性を示す人物を強烈に求めた結果だったような気がする。
リストラと包括的に呼ばれたものが、本当はどうあれば良いのか?であったり、政党間で論争される政策の究極的な国家戦略というものが目指す先とは?という根本的な概念に強烈に向かっていく。
そして閉塞感の打破に対する結論は革新しかないという事だったと思うのである。
やはり我々が所属する国家が国民に果たす義務を改めて考えると、生命と財産を守るというシンプルなものに突き当たる。それは戦国時代の各大名もまったく同じ事で勝ち残りのトーナメントを戦っており、その中で劇的な勝利を収めた信長には他に無いなにかがあるという興味が湧くのは不思議ではなかったと思うのである。悲痛な希望とも思うのである。
そしてその興味が求めたものからは、実は今までに無いありとあらゆる現代に通ずる可能性を秘めた革新的な発想がボロボロでてきたのだった。
郵政解散時に民衆が求め始めたのは改革というよりは“リセット”に近かったのではないか?と思うのと同時に、信長的革新性を求めたピークだったように思うのである!
もうなにもかも全て一からやり直そう!
もしくはサッと綺麗にして、その瞬間だけは我慢するけど、さっさと何事もなかったように
綺麗に作り直して!
それは今日まで続いている。
そこには信長から天下を継承しアレンジした秀吉・家康などに持つ印象とは
まったく違う感性があり、劇的なものへの希求が強烈にあった。
しかし実際にリセットなどは無理なことも承知している。では何を求めているのか?変革という事と根本的なリセット、その最大公約数に据えようとしたのが、信長的な発想を下敷きとした革新だったのではないだろうか?ある意味この時期本当はマキャベリズムがもっと台頭してもおかしくなかったのではないか?と私は思うのであるが、それよりも身近な存在、ある種の“近年イメージ的変化を遂げた小説的”な信長の合理主義で革新性のほうを民衆は選んだ。
それはある意味他人ごと的史観であり、劇場型展開への気楽な傍観者気質がそれを選ばせたような気がするのである。
しかし、何となくその後、信長的発想及びそのイメージを下敷きにした政治的変革が、本質的には劇的な社会変化を生み出すこともなく、毎度の枝葉の修正でしかなかったというようなイメージや、具体性と観念が捩れてなにか進捗する部分を実感として得られなかったという結果を迎えたのではないか?と感じるのである。それが信長の印象変革のピークを迎えたという感想の論拠である。
もっと端的に言えば、日本人にはある程度まで信長的志向性を下敷きにするのは有効だが、最終的には“向かない”という事だったと思うのである。変化ポイントへの概念として、信長的発想は実に有効なのだが、それに時間がかかったり、指導者が運用を、間違ったなどという印象が少しでも出ると、それはすぐに潰される。この信長的革新の決断は“即時結果”が感じられないと難しい。それは単純である、劇的な変化だからである。ダラダラとした変革などあり得ない。
それと、やはり日本人には格差を生み出し、平均ポイントが上昇し良くなったというのは受け付けないような気がする。江戸、明治、大正、昭和を通じ社会安定の象徴的な捉え方は調和であると思う。一部が社会を引っ張るだけでは、この国は芯からのモチベーションを保てないのだと思うのである。
だからやはり信長の革新性を秀吉や家康のようなアレンジャーが修正を施さないと、恒常的発展が生み出せないと思うのである。これはワンセットであるということが一番大事なのではないか
と考える。信長、秀吉、家康というこのラインが実は必要なのであるが、これを禅譲ととらえてもいけない。すべて権力奪取にて変わらなければならないという大事な要素が存在する。
信長が本能寺で死ななかったとしてその後を考えた場合、海外へもその覇権を広める野心があったというのは後の秀吉の行動からも簡単に想像はつくが、本当に上手くいったであろうか?やはり信長的な革新性だけで国家を安定し国家を運営できたであろうか?やはり常にクーデターの危険が付きまとう不安定な社会か、強権による独裁国家ということしかイメージとしては浮かばない。まぁそれが天皇を中心とする国家観を有するものが早くも察知し本能寺に至ったと私は思うのであるが・・・・
いずれにしても、信長的革新性は必要なのだが、そのイメージに理想を求めるピークは越えた、今求められるのは、運用をできる部分への期待を感じるのであるが、現実、今や織田信長を模して小泉元総理が絶叫したものが麻生総理にはどれほど受け継がれているのか?正直まったく別ものとしか見えない。安倍、福田まではあったが、これは禅譲でしかないから本質的には無かったものと同じである。あくまで小泉から麻生という流れが本質であり・・・そう思うと実は麻生とは、光秀?と考えられなくもない。
麻生には革新的な国家運営などは気質としては無いような気がするし、秀吉や家康のような独特のアレンジ手法も見当たらない。従来的な自民党支配による国家運営、もちろん自民党議員であるから自民が支配することを念頭に行動するのだが、ここでいう自民党とは既得権益を留保、担保するという意味での自民党である。これは光秀が信長に抗した最大ポイント天皇を中心とする旧来の国家観から逃れられない、斬新な規範についていけないという感性に近いものを感じるのである。麻生のクーデターは小泉政権ですでに兆しがあり、安倍・福田で完遂したのだと思うのである。
そうなると
三日天下?
今の状況とはせいぜいその程度の移行期間かもしれない・・
こんな経済状況を誰が考えた?
まさしく秀吉の中国大返しに近いのではないか?
天王山の決戦とは?
慌てふためき、協力者が離散する光秀・・・
今後ありえる、
追いつめられ“解散ができない”状態と近くないか?
さて
この後の秀吉は誰か?
家康は誰なのか?
今現在がそのような時期なのではないか?と思えるのだが、
実はそうではなく
織田信長的革新性を求めるイメージから
歴史的な確実性の秀吉・家康へイメージをつなぐのではなく
一足飛びに歴史的イメージの変換が行われているように感じるのである。
理想とするものが、、、
秀吉・家康的なものへの国家運営の流れではなく
明治期にテレポーテーションしている?
私にはなんとなく、明治維新へイメージをつなごうとしているように感じるのである。
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