2008年03月31日(月)
イマダモッケイタリエズ 
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何気なくテレビチャンネルを変えていると、大相撲中継にぶつかった。
相撲は嫌いではないが、特別チャンネルを選んで見るというほどのファンでもない。
しかし、普段は何気なく次のチャンネルへ変えるのだが、その日はカチャカチャが止まった。
千秋楽、朝青龍と白鵬の横綱対決だった。
これは見ておくかな・・と普段スポーツニュースのダイジェストでしか見ないメニューなのだが、昨今の騒動から世間ではこの一番に対して大いに盛り上がっていることは知っていたし、正直、何が?ということもないのだが私も世間並みの興味が湧いたので暫く相撲中継を眺めることにした。。
千秋楽の大一番、優勝決定戦、結果はもうひろく知れ渡っているのであえてここで細細書く必要はないが、久しぶりに両横綱が土俵にあがり勝敗がつくまでをじっくり見たその感想は、???
であった。
横綱がガッツポーズ???
花道で両手を上げて声援に応える???
品格。
確かに品格がない。
これはどこがどう、なにがどう、という事ではない。私の率直な感覚的な反応だ。
横綱とは勝つことが当たり前の存在であり、負けるとその存在が消えうせる、そして勝ちつづけることと常に向き合わなければならない孤独な存在であり、その勝敗は決して個人の欲望をモチベーションとして歩まなければならない道ではないはずだと私は思っていた。そして一つの勝利、例えそれがその横綱個人にとってどれほど大きなものかなど相撲という世界の大局においては如何ほどのこともないと私は考えるのである。
横綱の勝利とは、ある種“勝つ”ではなく“負けない”という感性なのでは?と思うのである。
それを感情露に勝利の喜びを土俵上で表現するとは…・
これで横綱か?と正直思った。
とてもではないが私の感覚としては横綱足るべきという許容範囲を遥か彼方に超えている。
外人云々ということではない。自分の中にある横綱という存在とあまりにも整合しないのである。
それはどちらかというと過去の具体的な横綱の存在と比較してではなく、理念、理想とするものとの間の距離を恐ろしく感じたのである。
この千秋楽の一番そしてその後のインタビューと一連を見たのだが、これらは世間でどう評価されるのだろう?と大いなる興味を抱いた。
その日の晩から翌日のニュース、勝った、優勝した、不祥事以降の苦闘、そんな内容が大半であった。しかし、横綱審議委員の内館女史から品格の問題が指摘された。
優勝に内館氏が冷や水-。日本相撲協会の諮問機関である横綱審議委員会(海老沢勝二委員長=元NHK会長)が24日、東京・両国国技館で行われた。春場所で復活優勝を果たした横綱朝青龍(27)に対し、気迫を容認する声が出た中で、内館牧子委員(59)=脚本家=が立ち合いや所作の乱れを指摘。「品格の問題はクリアになっていない」と切り捨てた。
しかし、横審内では別の見解もある。
審議会は北の湖理事長による春場所総括で開始。海老沢委員長は2場所連続となる横綱の千秋楽相星決戦を制した朝青龍について、「努力と気迫をほめてやらなければならない」と評価した。
両手を挙げて花道で声援にこたえた姿や関西弁での優勝スピーチも「時代とともに変わる。派手なアクションはいかがなものかと思うが、毎回でなければ方言も文化」と許容の範囲とした。
二つに分かれている?というよりもニュースから感じるのは、内館女史一人が強硬に指摘しているという雰囲気だ。
これを世間はどう受け止めているのか?またこの横綱の一連の行動と今回の勝利にどういう感情をもっているのか?興味深く眺めることにした。時代、当世流とかいう流れと、私が考える理想との関係性、距離感とは如何なものなのか?
翌日、ネットのニュースを見ると、かなりのコメントと呼ばれるものが集まっていた。
それを粒さに読むと、大半が朝青龍の勝利を歓迎し、その後のインタビューまで含めて肯定している。そして内館女史に対しては罵詈雑言の数々。ざっと見ても7対3の割合で、今回の朝青龍に対しては好意的であるように感じた。これまでの問題を乗り越えてよく頑張った。勝ってその喜びを自然に表現したことも相撲というある種のエンターテイメント性を持たなければならない、
格闘技興行においては必要であり、ファンを喜ばせた。おおよそこういう内容が大勢だったような気がする。そして内館女史に対しては、その指摘にある品格に対して、大半が噛み付いているのだが、どうも感情的なものが多いような気がする。それよりもババアとか、なんでお前が!とかお前のほうがよほど品がない!というようなあまり論旨論点が定まらない内容と、品格がないというその品格そのものの定義の違いを論拠としているモノがほぼなかった。簡単に言えば、内館女史への個人攻撃であり、彼女が提議している問題への反駁とは到底思えないものばかりだった。
これを世間の評価と素直に受け止めれるのか?
違うだろうなぁ?
当たり前だわなぁ…
ネットの世界の本質とはこういうものかと思わざる負えない。ネットの世界での多数決があるとするならば、大勢は横綱側となるであろう。しかしネット以外の世界ではどうなのだろうか?ひょっとすると横綱側かもしれないが、少なからずネットのようなことはないと思うのである。それはもっと議論とその意見において各自が責任を持つということが大前提にあると思うのである。それは逃げ隠れできない存在として意見を言う、大きな世の中に対してという大層なことでなくても、友人間での会話においてもその発言の責任性というのは発揮されるであろうし、そこに反対意見があった場合は必ずその意見と討議する。その場合、必ず、品格とは?という定義の問題と、なぜ品格が求められるのか?という必要性、そしてそもそも品格を求める相撲という存在、そして歴史を兼ね備え今のこの時代に存在する理由と役割、役割を果たすための問題点なるものを絡め、その部分をある程度地ならししてその上で考え方を話し意見を言わなければ、意見として認めてもらえない。それはその時点からのものではなく、それまでに培ったものというベースのすり合わせこそが先ずもって地ならしとなるのではないかと思うのである。これはなにも学術的な論述というようなものではなく、それぞれの日常、引いては人生観みたいなものから感じるものが一番基礎となりその上に知識の増減が絡むと思うのである。そういう手続きを経ないネットのコメントとはかくも軽薄であり、みずからの軽薄さを棚にあげよくもここまでのくだらない意見を堂々と書き連ねられるのか?無記名といえども、そもそもその神経を疑うどころか、それこそ品格の無さがなせる技なのかと驚嘆する。
私は他のニュースでここまでネットのコメントに対してモノを言うつもりはない。
ある意味どうでもいいことであり、無関心でしかない。しかし、この横綱の品格という問題についてはどうもそういうわけにはいかないのである。
あまりにも全体を理解せず、格闘技の一試合のような感覚で横綱の行動を論じているのは噴飯ものであり、これが多数を占めるなどというのはどう考えてもオカシイと思うのである。
国技というが、この漢字自体の意味を掘り下げることは別にして、間違いなくこの国で生れたものである。なぜこの国で生れ今も存在しているのか?ここに現代の相撲の本質が凝縮しているように思うのであり、この相撲という古から続くものを現代の我々も同じように楽しんでいることのDNAの繋がりが、この国の人間、社会を大きな部分で表している?いや、理想とするのの歴史的繋がりではないか?とも思うのである。
その本質を分からずにその時その時点の勝敗だけであったり、現代人の映ろう生活規範における許容の中で相撲と横綱の品格を論じるというのはあまりにも情けないような気がするのである。何を守ってきたのか?これは相撲界が守ってきたということも勿論あるが、古よりつづくものが存続し現代にもさほど本質的形を変えず残っているのは、やはり国民が希求したからに他ならない。それは興行的な収支の整合ということが前提では無い筈であり、もともとの存在理由というコアが厳然とあり、今もそのコアを我々国民は享受しつづける、いや、しつづけたいと心底で思っているのではないかと思うのである。そうでなければ他の格闘技と同様なもっとショーアップした興行やストーリーを作為的に創出したほうがすべては丸く収まるし、収支の整合も取りやすくなるだろう。しかし、そういう極端な事を語ると、そこまでは!、それでは相撲でなくなるという意見がでてくることは容易に想像できるであろう。ではなぜ?そこまでは?という限界をもつのか?その線上には一体なにがあるのか?それを考えたことがあるのか?と問いたい。それは偏に伝統という重いものがその線上に頑丈な壁を建てており、そこにある種の安心感を得ているのではないか?と思うのである。でもその線の位置とは各個人が様々考えるのは自由であるが、今現在どこにあるべきかとはある意味多数決で結論を求めるべきものでもないし、収支だけでその線を変えることもできないと思うのである。また世情と同調というのであるならば遥か彼方で伝統などは崩壊していたと思うのである。なぜか?それは一度変更するとそう容易にもとにはもどせないほど本来重いものであり、また重くしなくては動いてしまう危険性を兼ね備えているものでもある。伝統とはそういったものではないか?と考えるのである。
この伝統は先述したように、相撲界独自で作り上げたものではないという本質を先ずもって理解しなくてはいけない。これはこの国の歴史が作り上げたものであり、強いては国民が作ったものであるという事を考えなくてはいけない。時代がとか、今時とかという軽薄な論理でこの伝統の壁が軽軽しく動かせるようでは、もう綺麗さっぱりなくなったほうが後顧の憂いは綺麗に断ち切れると逆に考えてしまうし、もともと連綿と築き上げたものとは必ず先人たちの熱い思いがその礎として強固に土台となっている訳で、この先人たちの思いと現在という時点に存在する人間や社会が、この後に先人達が築き上げたものを恐ろしいほどの変質を加え託すというのは、歴史という観点で過去を振り返った時、その善からぬ偏執を招いたということになる可能性について真剣に考え責任をもてるのか?という部分を夙に思うのである。
現在の大相撲そのものが相撲全ての歴史ではない。
相撲そのものとは、やはりこの国の原始宗教に近い神道概念から生れたものだと思う。その本質を興行と絡めて発展させたのが現在の大相撲だと思うのである。しかし、ただ単純に勝ち負けを競うという競技として発展興隆させたのではないことは明らかであり、ある種の神道や原始・土俗・民族的宗教性を絡ませることによりよりこの国の根本的な部分とコアを一にし、広く国民が納得できる存在に作り上げてきたのだろうと思うのである。そのために様々な様式や所作、その他の必要概念を補完し完成させてきたはずである。これは最初作為的なものがあったかもしれないが、しかし時間をかけ時代を経て、熟成された本物の風格を兼ね備えた歴史に現在ではなっている。そしてその歴史的熟成の最大は、尊敬に値するという事が全ての基本にあったのではないか?と私は思うのである。他の格闘技のようにそもそもの歴史が、王侯や差別的関係の支配者が上覧し死ぬまで戦わせたという背景ではなく、戦いそのものを奉納、そしてその戦いを仰ぎ見るという形が根本的にあり、その意味では戦うものを見る者が上から下を見るような観戦ではなく、下から上を見、祈りに近い観戦だったと思うのである。その論理的背景を神道に委ね、具現化したのが相撲、そして現在の大相撲の原型なのではないか?と思うのである。土俵は結界なのである。神の領域であり、神道がその存在性を担保するという図式であり、その所作や様式が必要として形になったと思うのである。立会いというものがある。神道の側面にのっとり清めの塩を土俵に撒き、そして力がみなぎる、あるいは神の憑依を待つかのごとくの間合い、そして力みなぎりお互いに呼吸さえ合えば、制限時間関係なく戦いが始まる。こんなスポーツは他にはない。あり得ない。ルールのようだが
ルールではない。お互いの呼吸が合う、と言うのを戦いの起点とするというのは、相撲のみの形だ。ジャンコクトーが相撲は“バランスの奇跡”と賞賛している。そこに笛や何かのシグナルは必要としないのである。もともとスポーツとして見れない高尚な側面が存在し、高い精神世界の発露から戦う様相を内包しているのである。これは本か何かを見て相撲とは?という事では決して理解できない部分であり、数限りなく見ることで理解する部分であると思うのである。この数限りなくとはやはり我々の国の歴史に他ならない。そして子供時分からの経験もその歴史の一つだと思うのである。実際に相撲を普通に出来る環境。相撲によって勝敗をつけるという選択が存在する国とその歴史。
女性は土俵に上げない。
これに意味はない。歴史そして歴史的根拠として神道が存在し、神道で血は不浄という概念が存在する。生理がある女性は不浄。
こんなものを女性の権利とかというのと同次元に論じられるだろうか?明らかに女性権利を主張する側からは人権蹂躙であり、性差別に他ならない。しかし、ある種の隔絶的空間によってのみ存在する世界の人間の規範からすると、そういう権利主張は著しい毀損行為であり、許しがたい
存在となる。このもともとの乖離点をどうやって埋めるのか?法廷なのか?実に馬鹿げていると思う。時間、歴史、そういったものの判断とそれを判断する大事なポイントの創出しかないと思うのである。この禁忌する法度を崩したいのであるならば、それなりの歴史的な大儀、変更点が必要であり、この世界の取り決めを外部のものがゴチャゴチャ言うのであるならば、それなりの研究とこの世界の人間の事情も理解した上で語らなければならないと思うのである。それが伝統であり、軽薄な世情の論理だけでは駄目であると考える。そうなったら相撲ではなくなる?論理で防御しているのではなく、そうなっても相撲だと万事整合するだけのものが必要なのだと思う。
そのために特別に論理的見識を有していなくても、ある程度頑なに反抗反対する勢力がないと、伝統の美しい変遷とは出来上がらないとも思うのである。伝統を盲目的に保守するというのも一種必要行為なのだと思う。変革者ばかりでは中心がなくなってしまう。大事なのはその鬩ぎあいとどの程度の緊張感なのかということなのだと思う。それが大きなポイントを創出するのだろうと考える。それから言って今回の騒動とは…ほとほと次元の低さと中心的な支柱となるべき論理が見えないのは、実に情けなくなるばかりである。
力士とは、昔教えてもらったが、その土地土地に生れた頑健な男子の身体を神の依代と崇めたことから来ており、その立派な身体をもったもの同士が神前で相撲を奉納したのが起源であると聞いた。だから四股名に土地土地の川や山の名前を付け、豊作や豊漁を祈願した。それは先述したとおり、その祭神として神前で相撲を行う奉納する、この発展形が現在の大相撲であると認識している。力士の頑健な身体には神が宿っていると古の人々は畏敬した。
力士の身体とはそれほど崇高なものであり、以前にもこのブログで書いたことがあるが、天皇陛下の天覧相撲では必ず力士は皆、裸にマワシで陛下をお出迎えする。天皇陛下の面前にて裸を正装とするのはこの国の中では力士のみである。ただの格闘家では絶対に許されない。力士とはそういう存在である。
ジャンコクトーが語るに・・
力士たちは、桃色の若い巨人で、シクスティン礼拝堂の天井画から抜け出して来た類稀(たぐいまれ)な人種のように思える。或る者は、伝来の訓練によって.巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。いずれのタイプの力士もまげを戴いてかわいらしい女性的な相貌をしている。不動の平衡が出来上がる。やがて足が絡み、帯と肉との間に指がもぐり込み、まわしのさがりが逆立ち、筋肉が膨れ上がり、足が土俵に根を下ろし、血が皮膚にのぽり、土俵一面を薄桃色に染めだす
異文化、知識のない、しかしながら天才的芸術家は、瞬時に相撲という、彼にとっての初めての出来事を理解している。この理解力は現代の同じ歴史を培う民族以上のものであると驚嘆するのと同時に、如何に我々が自らの文化を粗末にしているかの啓蒙に感じる。それほどに“美しい詩”ではないか?
何を見て書いているのか?他ならぬ“相撲”であり“力士”である!
力士は神の依代、そのなかのトップである横綱とは依代中の依代であり、別格な存在として歴史的に作り上げてきたのであると考える。もともと興行相撲に明確な横綱というポジションは存在しなかったと聞く。しかしその後大関の中の強者を横綱という事で免状を発給し、そのポジションを作り出したとも聞く。そういう意味では根底にある神道精神から作り上げた相撲の興行に新たな価値観としての存在を近代に作り上げ、そして現代までに熟成してきたのが横綱という存在なのだろうと考える。そこに論理的背景として横綱とは?という哲学が組み込まれ、相撲の中における横綱の存在と言うものが形作られた。私が思うにその理念と具体的存在の最大公約数はやはり双葉山だったんじゃないだろうか?と考えるのである。日本人、特に近現代における最高の力士、横綱像とは双葉山に限ると思うのである。
強い!しかしそれ以上に力士としての美徳を兼ね備えた人物。これこそが神の依代足るべき存在として一時期完成された形だったのではないかと思うのである。
今だ破られたことがない69連勝。確かに強い。しかし双葉山を最高の力士像にしたのはこの69連勝という勝ち方ではない。これは最高の力士像誕生のプレリュードでしかない。最高の力士像が生れたのはこの69連勝がストップした時だと思うのである。
約3年ぶりに黒星を喫し、69連勝で止められたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていった。
そしてその日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に「イマダモッケイタリエズ」と打電。
これが近現代最高の力士誕生の瞬間であり、理念的な部分においても、現実的な部分においても理想とする横綱のあるべき姿であったと思うのである。
また、双葉山の70連勝を阻止した安藝ノ海がこれを師匠出羽海(元小結両國)に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と言ったという。
横綱とはそういう崇高な存在であり、軽軽しく勝った負けたということだけで、語ってはいけないものだと思うのである。横綱がポロポロ負けるというのは、相撲界だけの問題ではない。
勝った負けたの部分だけの、ただ単に強いだけではいけないのである。本当の強さを求めつづける姿、それこそが真の横綱であり、真のカリスマ。そしてその存在は、わが民族が作り上げてきた理想的な道徳心の源泉であると私は信じている。
小さい時分、親が相撲中継を見ているのを嫌々付き合わされた。
その当時も勝利者インタビューというのがあり、勝った力士がインタビューされていたが
大抵、“はぁはぁ”と息切れ状態で“そうです”か“ハイ”としか言わず、ほとんど答えらしい答えをしなかった。
なんと辛気臭い。もっとショーマンシップに溢れなあかんで!などと思ったものだったし、土俵でガッツポーズの一つでもしろよ、面白くない!と正直感じていた。
しかし、ある時、負けたものにも背負っているものがあり、その負けの上に自分の勝利がある。自分が勝ったということだけで喜んではいけない、という戒めがあるというのを聞いた。確かに負けたものの前で喜びはしゃぐなどは、決して誉められた姿ではない。
相手を尊重する。
また神の依代たる存在であるという自覚をもつ、もしくはその伝統の上に立った存在であるということを考えれば、負けたものもまた神の依代であり、現実世界の勝敗とは意味が違うということもその根底には流れていると判断できる。負けたものが背負っているもの、これを理解しそして相撲というものの本質を理解すれば、粛々と勝敗を決し清くその結果を受け止めるというのが実に自然であると思えたのである。ましてやその最高位に位置するものの所作は他の追随を許さないほどのレベルの高いものでなくてはいけないのは当然だと思う。
その精神性こそが
横綱の品格だと思う。
また、背負わなければならない宿命的な品格でもあると思う。
勝っても“イマダモッケイタリエズ”であると思うし、負ければ尚のことそうと感じるべきであろう。そんな求道精神こそが横綱を始めとする力士の理想像であると思うのである。相撲は“術”でもなければ“技”でもない、やはり“道”なんだと思うのである。道を示し、その道を歩む姿に皆は感動し尊敬するのであり、そこにこの国で育まれた神道をベースにする宗教性が融合していくのだと思うのである。だから横綱はチャンピオンという存在ではないのだ。他の国には存在しない“カリスマ”であると思うのである。しかし私は外国人を排斥しろと言う意味においてわが国独自であると言っているのではない。わが国の宗教性、神道の精神から言えば、八百万の神々がこの国に集う、遠くはなれた異国に神の依代が存在したとしても不思議ではないし、その神様がわが国の土俵に上がってもなんらの違和感、不自然さもない。しかし、この国の相撲という歴史的な枠組みの中で全ては存在するものであり、他の価値観に開放する必要性はまったくない。相撲は相撲でありそれ以外の格闘技と融和する要素の必要性はまったくない。真の国際性を考えた場合、やはりこの根幹が非情に大事になると思うのである。自らのアイデンティティーを確固として外に示す。それこそが意見であり思想でもある。これを容易に変質させ融合させることが国際協調とは言えないと思うのである。それぞれがそれぞれの事情と理由があるのは当然であり、その壁をどのようにして取り除き融和するのか考えるのが国際協調であり、真の国際性であると思うのである。
そういう意味で閉鎖性と捉えかねないが、本来そこが個性であるとも言え、国の根幹にも関わる大事な部分であると思うのである。守らなくてはならないものがある。品格とはその最たるものではないかと思うのである。その品格とは何か?が見えなくなっているのが現実なのかナァ?
と、少しさびしくなる。
だから、現在の相撲、特に横綱・朝青龍にはとてもではないが、私には横綱としての姿は見えないし、相撲という歴史的根幹部分を喰い散らかされて、そのことすら気付かず、テレビ番組のひとつとしての印象しかないのか?と思うのである。バラエティーと同次元のスーパーフラット感覚と言うのだろうか?そこまでテレビ画面内で全てを整合させてもいいのだろうか?と思うし
片や、インターネットを見ると、とんでもない意見が大勢を占めている。
そんなものは所詮理想であり理念である。という意見もあり、経済的な整合がつかなくては存在そのものも維持できないという論調もあるだろう。しかし、そんな継ぎはぎだらけのなんか分からない格闘技になってこの先も存続できるのだろうか?今をある種の凋落と捉えた場合それは時代による娯楽の多様性とか様々な意見が具体性を持って見られがちになるが、根本はやはり伝統軽視、世情との同調からくるつまらなさが一番大きな原因であると私は考える。時代性は当然必要である。なんのために必要かということが大事であり経済的な側面からのみ論じるのは間違いだと思う。又、本質を理解していない歪んだ伝統も必要はない。伝統を如何に時代に融合させるか?それはメディアナイズした表層的な部分ではなく、もっと根本的な相撲というものの存在のあり方の提示ではないかと思うのである。それはやはり強いだけという横綱の存在ではなく、真の横綱の創出にあるのではないか?と思うのである。そういう根本的な部分の理念が確固として存在しないと理想的な売上?収支など到底生れるとも思えない。時代が変われば、世論と同調してしか商売としての存続性が生れないと考えるのは大きな間違いだと思うのである。それは全く逆であり、伝統にのっとって、古臭くても、この国の歴史的な大事な部分を守り抜く、それこそが今後の相撲の興隆にとって大きなカギとなるのではないか?と私は勝手に思っている。
ある意味、弱い力士でもいいのである。
強さ弱さはひょっとすると二次的な要素かもしれない。
真摯に相撲と向き合う姿以上に感動できるものはない。
同じ外人でも、あの小錦の最後の姿はどうだったであろう?あの強かった時分からは想像も出来ないほどヨロヨロであったが、土俵にかける執念に皆感動したのではないか?大関を陥落し、そののちも怪我で苦しみながらも現役にこだわり続けた姿は、ある種の求道者の姿だったのじゃないだろうか?誰も彼を非難するものはいないだろう・・あの姿は格好の良いものではなかったが
品格が十分備わった風格を持っていた!!
今、観客がひしめくのは、ある種、ヒローなき世界に、ずば抜けたヒールが跳梁跋扈しているお化け屋敷を見に行くようなものじゃないか?と想像しているのである。朝青龍が勝つよりも、負けることの期待のほうが遥かに強いのではないか?しかも無様な??そういう妙な緊張感というのか関係性があるように思うのは私だけだろうか?朝青龍に声援を送るものは、負けて心から本当に悔しがるのだろうか?そこには大いなる興味がある。
冷静に見て
あの
朝青龍の所業に
品格があると思えるのだろうか?
。。。。。。。
そこから、品格ってなんだ?となり
そんなものが必要なのか?となる論法はとてもではないが話しにならない。
横綱たる存在として納得いくか?
私はとてもではないが認められない。
これが認められるということが現実であるならば
確かに、弟子に常軌を逸したリンチ加えて死なすという事も理解できるし
相撲という過去の伝統とはまったく違うものを運営しだしていると言う認識で納得でき、今まで語ってきた相撲と、現代の相撲はまったく違うという概念に立てば、私は全て頓珍漢なことを書き連ねたと納得できる。
しかし、本当にそうなのだろうか?
今、一人の女性が、自らの信念における横綱像と品格に対して意見を呈している。
ボロクソに言われ、審議会とよばれる組織からも鼻つまみのような存在に見られている。
ネットでは本質とは違う部分の個人に対する誹謗中傷・罵詈雑言を罪の意識なく吐き棄てている。
そんな状態のなかでも、頑なに横綱の品格に対して問題を定義しつづけている。
本来、この人の言っていることはそれほど攻撃すべきことなのか?
常識に照らせば、至極妥当なことを提議していることはないだろうか?
私は彼女が警告、警鐘していることはすんなんりと理解できる。
それよりも、ここまで孤軍で奮闘し筋を通している女性を見て
世の中に同じ立ち位置に立てる男性論客が
多少考えが違えども
義侠から援護射撃する奴はいないのか?
この問題に立ち向かう
そんな“侠”(おとこ)はいないのか??
そんな侠(おとこ)がいないなかで
品格を説く
のは確かに
不毛なのかもしれない。。
分かるはずもない!!
なにが品格なのかということ
そして
安岡正篤が説き
双葉山が吐露した「イマダモッケイタリエズ」という言葉の意味は。。。。。。
分かるはずもない。。
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