2008年02月29日(金)
一台のテレビ 
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まぁ、これは貧乏によるところも大きな割合としてあるが
基本的には嫁のポリシーによるところが大きい。
子供が各部屋でテレビを見るという事を完璧に“良し”としない哲学があるのである。
私もこの考え方にとくに異議を挟むことはない。しかしながらかといって嫁のような頑なな哲学があるか?というとそれほどまでのものは正直ない。あればあったで良いという程度であり、一台しかない状況であるならば、それはそれで良いという程度である。つまるところ、簡単に言えば何も考えていないということに尽きるのである。しかし、子供が大きくなるにつれ、これはやはり嫁の考えていることは正しいのではないか?と思うようになってきた。
やはりテレビは誰もが見たい。出来れば独占したい時もある。いや、だんだんそうなってくる。これはそれぞれに趣味嗜好が違うから当然である。その中で、皆でシェア‐するということを家族の関係の中にむりやり掘り込むと嫌が追うにも、譲ったり、譲られたりという関係が生じ、そのプロセスを踏まなければ整合しなくなる。僅かなことであるがコミュニケーションの必要があるのである。
また、相手が好むものに付き合うということは、ともすれば苦痛をともなう事もあるが、他人が好きなものから、自らが進んでは入ろうとしない世界に自然に誘ってくれるという、無意識の可能性がそこには生れたりする。
そういう意味で、我が家の子供達も思春期を迎えるにあたり、以上の結論から改めて考えれば、どんどん家族と喋らなくなる傾向が顕著になり、なかなかコミュニケーションもダイレクトでは取りにくくなるのは目に見えている。それから考えれば、テレビは一台が良いという事になるのだが、この論理は子供からすると貧乏が故のこじ付けにしか感じてもらえてないのが現状である。
まぁ100歩譲って一台で良いとしても、ブラウン管のテレビはは無いんじゃないのぉ?
液晶、プラズマ?どちらにしても一台の哲学は保てるじゃない?ということにどうにも論理の整合が取れなく、実に脆弱な状況に落ち込む。
しかも、気付くと、嫁までも、その部分は子供達に賛成と寝返ったりしているではないか…・
どうにも、いつのまにか、家に一台しかもブラウン管のテレビという哲学は、私の頑なな考え方になってしまっているのである…
なんとも恐ろしい嫁の調略である。。。うーーーー…
しかし、テレビ一台に限らず、基本的に分け合うというのは良いことではないのかなぁ?と考える。そう言えば私の実家も一台のテレビであった。今から考えれば、よくテレビのニュースを家族で見て、その内容を討議したことがあった。そう考えると、今このようなブログなるものを偉そうに書いているのだが、その物事の判断基準であったり考え方の方向性は、この時分の家族との会話やある時には討議することで培われたベースじゃないかなぁ?と改めて感じるところがある。
これって?大きいなぁと思う。これが一人で子供時分テレビを見ていたただけの場合と比べると、考え方や、世間一般という常識との差や、親の考え方、そういったものが、ディープには自らの身体には浸透しなかったんじゃないかなぁ?と思うのである。社会のニュースを見て、悲惨な事件が起こると、なぜなんだろう?昔は・・などと必ず親という存在は口にし、その当時を知らない子供は必ず時代が違うというカウンター的な感情をもつ。しかし大事なのは、言葉としてこれをクロスさせることではないか?と思うのである。例えくだらないことでも、これを繰り返すことが反復して色んなクロスの線を編みこませるような気がするのである。お笑い一つとってもそうだ。明らかに感覚が違う。子供がゲラゲラ笑っているものが、正直まったく理解できないときがある・・どころかかなりある。しかし、テレビが一台だと苦痛に感じながらも一緒に見てしまう。そうすると同じ笑いがあることも気付いたりする。私達もそうだった、漫才ブームの笑いにゲラゲラ笑いころげていた時に、親はその笑いやタレントに眉をひそめていた。老齢な漫才師がでてきて、我々にとっては実に辛気臭い笑いにクスクスし、これがホンマの芸や!と誇らしげに解説していたのを覚えている。。しかし苦痛ながら一緒に見ていた。それが終わらないと、お目当ての芸人が出てこないからだ。。この時間のクロスが実は大きいと今感じるのである。今から思うと当時ブームだったものは面白くも何ともない。しかし、親が笑っていたものが、今、少しおかしくなって来たりしている。これは単純に年がいったということだけではないような気がするのである。そういうベースが蓄積されてきた、また蓄積できるベースがあったように感じるのである。
石原裕次郎などもそうだ!私の母親は大ファンだった。しかし、私は正直、なんでこんなブルドックみたいな顔した男を好きになるのか?全然理解できなかったし、太陽にほえろで見せる机に座ったままの演技にまったく魅力を感じなかった。絶対、ショーケンや松田優作の方がどう考えてもカッチョええのに?と思っていた・・
しかし、時間が経ち、石原裕次郎という存在を知るうちに、彼が出現した当時の鮮烈さや、その当時熱狂的に迎え入れた若者達のこと、その中に自分の親もいたことを知ると、なんともいえない感覚に浸れ、そうかぁ?と思い、なんとも言えないクロスオーバーな感覚が湧き上がってくるのだ。これなんかも石原裕次郎という人間をテレビというビジュアル訴求を初めとして享受したものから分け合えたような気がする感覚なのである。。
今、なんか最初っから分けすぎるんじゃないかなぁ?と思うのである。
それっきり!というか、端から無理して交差しないというか…
あらかじめ分けることからはじめるけど、本当にそれでいいのかぁ?と少し悩むことがある。これは今まで書いてきた家族だけじゃなく、会社、仕事、人間関係、全てにおいてである。個人主義、プライバシー、合理的、個性の時代とかいう事を金科玉条のようにテーゼとして据えるが、本当にそうなのだろうか?そんなんじゃお互いよくわからんのとちゃうんかなぁ?
以前先輩社員が引き継ぎに若手を連れて出張に出かけたとき、夕飯に連れて行こうとした先輩社員に若手が「飲むんだったら一人で行ってください!」と言い切った。。。
確かに、仕事の時間が終わればフリーではある。しかし元々を考えれば、先輩に対して本来は引継ぎ業務に同行してもらっていることを徹頭徹尾感謝するというのが本来の姿であり、内心どう思おうが、そんなものは個人的な感情でしかない。それと、今自分がいる状況、すべて自らが足りない故に起こり得る、もちろん初めてのことは教えてもらわないといけないから当然といえば当然なのだが、しかしそれを客観的に当然と言い切るがごときの態度を取れる、そこを全体的に考えずして自らを棚に上げ分別でき、どうして分けれるのか?が私にはまったく理解できない・・
これは?その子の親も同じ考えなのだろうか?といつもこういう場面を見るに付け考える。
そうでなければ、普通はブレーキがもっと以前に効いているはずであり、臆面もなく“ポロッ”と出るのは、結果的には親も同意見であると判断される。我々は最低この部分に強烈な自らの羞恥は兼ね備えていた筈である。もっとも恥ずかしい言葉、侮辱、それは・・
親の顔が見たいわぁ!
だった筈である。
しかし、案外これが普通らしいのである。もともと分けて物事を考える指向性のなせる技なのかなぁ?と思う。今の若い人、特にスポーツ選手なんか見ていると、我々の若い時分とは比べ物にならない位の実績や成果を上げる人間が出てきている。しかしこれってよく考えると、あくまで個人ベースなのでしかない。団体や集団、もっと言えば、日本の若者というくくりで、個人が果たすような世界に冠たる成果があがっているか?と問い直すと、案外下がっているような気がするのである。もちろん我々の時代も大人たちからそういった事を言われた記憶がある。
しかし善悪は別にしても、我々の若い時分までは、目に見えたムーブメントが確実にあったような気がする。今も商業のベースを見れば、過去最高の収益を上げたり、販売実績を誇るものが世の中の若い人を対象とした商品や現象としてあるが、なにか勢いがない。。不良一つとってもそうじゃないだろうか?明らかな不良が少ない…こいつは不良なのかどうなのか?なりを見ただけではわからない。。ある種個人主義的なはずなのに実社会では埋没していて、他の人間との立ち位置を姿形で明確なコントラストで表さない。そのかわりインターネットやその他の無記名で発言や表現できる場に異様な脅迫まがいの強いコントラストを放つ・・なにを自分のなかで分けているのかテンでわからない。。おそらく自分たちの中では整合がとれているのだろうが、我々から見れば奇天烈な行動や言動にしか映らない。。。
もうちょっとなんと言うのかなぁ?分け合うという時間があるべきなのじゃないかなぁ?と思うのである。。これは個人的な感覚なので別に普遍的なものでもないし、そうじゃない感覚をもった人もいるだろう。しかしながら私はそう思うのであるから、ここに他人からの意見に納得するものはない。
今、それこそ一台のテレビを家族で見ることで知った優れたドラマがあることに気付いた。
それこそドラマなど私はよほどでないと見ないのだが、偶然、家族が見ているに付き合って見ることになったのだが、テーマ性が実に優れていると気付かされた。
一つは“エジソンの母”でありもう一つは“だいすき!!”である。
エジソンの母は所謂、型にはまらない人間、特に幼少時にそのピュアな感性を示す子供に対して、画一的に接する大人達が感じる現代社会という構成なのだが、確かにエジソンもアインシュタインもその他の歴史上の天才と呼ばれる人物達は必ずその時代の枠からハズレ、劣等性の烙印を押されている。しかし、逆に必ずその叡智に気付く大人や周りの人間が存在し、その才能を開花させる。これを中心に据えた時、今、我々はこういった天才を社会は育てることができるのだろうか?おそらくそんな人物は過去の歴史の遺物的存在でこの時代にはあり得ないということが前提として固定観念化していないだろうか?もちろん天才達が生きた時代でも、枠というものがあった、それは今とさほど変わらない、ともすればもっときつかったかもしれない。それでも出てこれた、あるいは育ったのはいかなる理由なのか?ここに分け合うという感覚が底辺にはあったのじゃないだろうかな?と思うのである。皆で構成する社会には必ず端から端までにはかなり距離があり、世の中は広いという大きな感性があったんじゃないかと思うのである。だからある種の画一性が支配する世界があったとしても、別に許容できる広い世界も当たり前のように存在した。そういう平面的な大きさもあれば奥行きもあったと思う。社会というものを皆で作り分け合うという基本的な定義があり、社会に貢献するということも感性として備わっていたと思うのである。
もう一つのドラマ、だいすき!!は知的障害の女性が同じ障害をもつ男性の子供を産み育てるという構成なのだが、これも私は同じだと思う。必ず社会は画一的な人間だけで構成されているわけではない。そういった人達も社会参加し、またそういった人達に対する現実的なコストも必要とされる。それは決して家族だけが支払うものではなく、社会のコストとして皆が支払うべきものであり、そういう意味での分け合いが必要なのだと思う。重いテーマ性ではあるが、実に社会に対して大きなインパクトを持つドラマだと感心する。そして彼らは社会からの分け前だけを享受する人間なのか?決してそうではない。そこには彼らが社会に貢献する糸口を探し、同じ社会を構成する人間として尽力する姿、それを求める、真に対等に求めることが、社会を共有するという意味に繋がるような気がするのである。ここに個人主義は破綻するしかないような気がするのである。誰かが?と本当に言えるのか?言葉では確かに簡単だが、先ず持ってそういう構成を社会は有している、ただそれだけでも皆根底に据えなければならないのではないか?と思うのである。一つのものを分け合うという事が全ての始まりであり、そこをもっと感性の中に染み込ませないといけないんじゃないかなぁ?と思うのである。
地球温暖化・・
地球は一つしかない。
先進国であろうが後進国であろうが、対地球ということを考えれば、それは一つの対象でしかない。誰かがヘンチクリンな理屈を並べ立てたとしても、毀損する行為は、皆で分かち合うものを独り占めしているとしか思えないのである。こういう規模まで広がると感覚として分かりにくくなり一気に現実味がなくなるが、しかし後が無いということを考えれば減る一方でいつか無くなる。それは誰がなくすのか?又逆に誰が残すのか?そこには皆で何を分かち合うのか?そこが一番重要な気がするのである。
。。。。。。。。。。。
今、我が家は食事も、個々で分けていない。大皿からみなが取り合う。当然人間の心理として早い者勝ちということもあるし、喧嘩もある。そうであっても私はこの食事スタイルが大好きだ。。
小さい時分、母親も父親も
大皿に載ったもので好物があると
“ほら!食べ、遠慮せんと一杯食べ、食べな大きくならんでぇ!”
と自分のものも私達子供にくれた・・
お土産があると、母親は必ず、私はいいから“はよお食べ!”
と、くれた。。。
遠慮はあったが、いつもいつも、母親はくれた!
いつもいつも、私よりもご馳走はすくなかった。。
おかあさんはそれでいいのか?
我慢してるのかなぁ?
と感じていたし、お腹へってへんか?と気にもした。。
それでも、いつもくれた。。
一つのものをそうやって分けてくれた。。。。
決してそこには均等ということはない
でも、均等であったのだ。
我が家では。
一つのものを分けているというのは
なにか、みすぼらしく見える
いや、そんな風に感じていた
若い時分
貧乏臭くも感じていた
でも、この年になり
改めて感じる
そして
今、少しだけ
父や母が
分けてくれた
一つのものの
意味がわかり始めた。。
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