2008年02月11日(月)
刑部 
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玄人は戦略(strategy)を語り、
プロは兵站(logistics)を語る。
これは非常に重要な言葉である。この逆の順に戦いの規模とその勝敗のポイントがはっきりと分かれてくる。また、最終的な結論から考えれば、逆の順に思考を働かさなければ、とてもではないが結論は得られない。しかしながら戦術と戦略はある意味現実的な感覚、リアリスティックな感性が求められるが、最後の兵站とはそれだけではどうも無理な気がするのである。
ある種の観念的、理想的な志向性を持ち合わせていないと最終的な結論を導き出すために、そして規模の大きさを維持するためにそいうった感性がどうしても必要なのではないか?と思うのである。
それは大将が思い描くもののガイドラインをある程度夢の次元まで膨らませることで維持しないといけないという事と、戦略や戦術といった現実的なもの、特に時間や状況で刻々と変化するものに即時対応できるだけの柔軟性と発想の豊かさが求められ、夢のような発想から如何に現実に落とすかという頭の回転を常に持ち合せていないといけないような気がするのである。しかしながら、必ず軸が存在する。それは戦略や戦術と言った、リアルな現場の中で、ともすれば忘れがちな“大義”であったり“目的”を常にしっかりと持ち合せていないといけない。
この重要性に最初に気づいたのが織田信長だったような気がするのであるが、それを具体的に実戦部隊として動かしたか?ということを考えれば、完璧にこの思考性の順路を辿ったとは言い難い。やはりこの事にいち早く気づいたのは、間違いなく秀吉だったような気がするのである。秀吉は確かに気づいたのであるが、それは歴史的な流れで言えばある種の当然の結論だったと思うのである。戦国トーナメントが佳境に入れば、自然と秀吉側に与する大名も増え、そうなると一つの攻撃ポイントへの軍団の移動という今までになかった大規模軍事戦略を行う必要性が生まれる。これは信長の時代の最終的な局面でも多少はあったが、まだ
各方面軍司令という散逸した軍事行動が主体で、信長の大軍団が軍事戦略に動くまでのことは無かった。しかし後を継いだ秀吉時代には現実的な行動としての必要性が生まれてきた。
もともと、私はこの兵站について秀吉は並々ならぬ感受性を持ち合わせていたと思うのである。その最初の具体的結果と功績が“墨俣の一夜城”ではないかと考えるのである。この成果とは小規模ではあるが、軍団をより攻撃ポイントに近づけ、より有利にその戦略を実行するかというための具体的行動であり、この時分、他の将が様々な攻城策を献じ実行に移しても失敗していた時に、ある種の夢絵空事のような突飛な発想であった敵陣深くに築く基地という彼の思考は、後の様々な軍事行動につながるものを感じる。戦術よりも戦略よりもまず
問題に対して最良の結果を得るための兵站をどのように組み立て、いかに有利に戦略と実際の戦闘に役立てるか?これを体感したのだと思う。もちろん他の戦国武将も砦等の防衛および侵略上の拠点という意味での兵站の感覚は十分持ち合せていたのだろうが、秀吉が抜きんでていたのは、通常の取って取られてという時間的関係を超越した所にそのポイントを見つけ出した点ではないかと思うのである。
そしてもうひとつ重要な要素が兵站用の“情報と能力をもった人材活用”だったと思うのである。ここが実は最大のポイントだったような気がするのである。所謂、軍師と兵站を司どるものを別に扱ったのではいかと思うのである。例えば、墨俣の一夜城という構想はある意味軍師の策と言えなくもない。しかし、これを実際に完成させるだけの知恵は軍師には存在しないような気がするのである。そこには蜂須賀小六を始めとする川並衆と呼ばれるその地域を誰よりも熟知し、そして砦築城に必要な材木流通から人足の確保からという事を瞬時に統括できる人材が必要となる。この二局面をまず頭の中で合致させなければ僅かな日数で砦等とてもではいなが完成しない。ここに秀吉独特の嗅覚が存在したのではいだろうか?この墨俣の砦そのものの構想は織田軍団の中でも現実的に存在しそれを幾度となく失敗していた。それは軍師からの意見を如何に現実的に行おうかと命令を受けた将兵が考えたからの失敗の結果だったような気がするのである。しかし秀吉はその点を一種奇天烈とも言える発想から具体的現実に陥れることの可能な人材を活用することにより夢のような現実を創出した。ここに大きな違いが存在したのと同時に、兵站とそういった業務を任せる人材という重要な鍵、これは彼のその後にとって重要な部分となるべき“武器”を発見したように思うのである。
そして金の使い方、一番有効な支出としての金銭と蓄財、それを受ける人間が動く法則、そして如何にそれらをつなぐかという軸になる自分の立ち位置を感じ取ったような気がするのである。
ここに新たな人材の必要性を感じ、一早く雇入れている。中途採用ではなく、無垢な新入として。これが天下人となる秀吉の慧眼だったと思うのであるのと同時に、この近江派を蓄えた時点で彼の野望がかなり大きかったというのが推察できる。戦術集団、軍略家、そして兵站、という事を城持ち大名となった瞬間から整備していく。これら人材中特に新設に近い部門に採用を進めたのが所謂、秀吉軍団での近江派、文知派である。時代が進むにつれこれら一派が秀吉の寵愛を受け重きを成していくのである。おおよそこれらの派は所謂、戦術や戦略に重用された集団ではない。どちらかと言えば秀吉直属の官僚集団であり、戦闘の場面でフロントに立つ人材ではなかった。しかし、全国制覇を成し遂げたあとの政治上の必要性をもちろん感じてはいただろうが、まだ完成途上でありまだまだ全国各地に戦闘を仕掛けなくてはいけない時期に重用したのは、言うまでもなく、これら文知派が兵站に対して抜きんでた才覚を有していた、そして天下統一のトーナメント戦での大軍事戦略を何度も見事に具体的勝利に導いた功績は、直接的な戦闘として称賛された賤ケ岳七本槍とは比べ物にならない成果があったと判断できる。しかし、実際の褒美は現場に重く、兵站を担ったものには権力というものを大きく渡していく。秀吉が生きている間はこの天秤が上手く水平を保つのであるが、秀吉亡きあとこの水平は一気に傾く。それから言えば、ある意味この文知派は秀吉でしか機能しない集団でもあったのと同時に、兵站に対しての評価があまりにも小さく地味にしか映らなかったのだろうなぁ?と思うのである。唯一理解していたのが秀吉であり、秀吉の人生で中盤から終盤にかけて、この兵站を担った人材達を抜きでは彼の軍地戦略は語ることはできないし、秀吉自身も彼らに頼ることは並々ならぬものがあったと思うのである。あまり語られる事はないが、小田原に20万の軍団を終結するというような、当時としては常軌を逸するような軍事行動がなぜ実行できたのか?この人数を1日逗留させると一体幾らかかるのか?それにもまして、相手を威嚇し戦意を喪失させるためだけに城を作るなどという構想を具体的に進められたのは一体どういうことなのか?冷静に考えれば、権力がなせる技と言えばそれまでだが、そんな単純なものでないのは一目瞭然である。また、朝鮮半島へ軍団を派遣し戦闘を繰り広げる、そして撤兵を恙無く行うなどという軍事行動は、秀吉が天下人になる以前に国内にはまったくない能力だったと思うのである。それから考えても、これら軍事行動の裏で働いた兵站奉行の力量とは並々ならぬものが感じられるのと同時に、秀吉が全幅の信頼を寄せていたのも分るような気がする。会社で考えればこの事はよくわかる事でもある。現場の勝ち負けよりも、先々の金銭の回転であったり、在庫の増減をいち早く読むことによる生産体制の指示であったり、売上拡大を図るための拠点確保であったり、その地理的な遠隔を如何にローコストでつなぎ戦闘地域での士気を落とさないか?など、やはり現代でも会社の規模と武威を保つためには必要不可欠な仕事であることは間違いない。ただこれを兵站部署などとは呼ばないが、でもまぁ基本的に私が考えるにこの手の人材が薄いもしくは意識が薄いのは会社にとっても大きな問題であるのは間違いない。
この秀吉が天下統一に驀進する途上、兵站という重要な任務を類まれな才能で見事結果を残し続ける人間が二人現れる。
石田三成と大谷吉継である。
ともに豊臣軍団の兵站を担ってきた官僚派である。
私は、戦国大名中この二人ほど稀有な人物、そして関係はないと常々思っている。
歴史上決して評価される事があまりない二人なのであるが、私は現代においてこの二人の関係は再考されるべきものであると思うのである。
友情という感情がなかったこの時代の大名間で、誰がどう考えても二人の関係は、損得感情を抜きにした友情としか思えないのである。それは出身地が同じ、秀吉に仕えた時期が近い、同じ兵站の任務を全うした、どれもそうなのだが、そんなものだけで理解できない深いものがある。今のような条件であるならば、他の戦国大名など大半がそうだと思う。
いや違うのではないか?という人間がいるかもしれないが、私は三成が島左近という名の響いた武将を雇い入れるとき、自らの領地半分を進呈したという人間の質から考えても、ある種の直情型で観念的である部分から、彼らの関係は損得を挟んだ関係ではなかったと判断するのである。
戦国時代とは武威の時代である。その中で官僚的に名をなした者という稀有な立場とこの秀吉が生んだあだ花的存在が崩壊することが次の徳川政権移行という結果論的皮肉かもしれないが歴史を動かすという意味において最大の兵站活動を行っていたということが不思議でならないのと同時に、この中世を代表する決戦を決戦たらしめられたのは三成の存在が中軸ではなく、大谷吉継にあったのではないかと思うのである。なんとなく思うのであるが、徳川家康はこれほどの天下分け目の戦になると最初から考えていたのか?少し疑問がある。間違いなく京を空にし、三成側を誘いだしたのであろうが、あまりにも後の結果において不手際が多い、特に引連れた大名の妻子を無防備に残して遠征に行くというのは付け込まれる隙が大きすぎるように感じるし、あまりにも気軽に会津まで出かけているような気がするのである。これがそうはいかないとなったのは、間違いなく大谷吉継が三成に与してからのような気がするのである。
三成は最初に書いたとおり、兵站をさせれば他に類をみないほど完璧にこなすであろうという性質を持ち合わせている。ある意味少し観念的すぎるくらいのところがある。しかし大谷吉継はどうか?というと三成ほど観念的でもない。かといって三成よりも兵站の任務を行う上で劣るかというと決してそうとも言えない。それは彼が秀吉から指示を受けて行った数々の任務からも読み解く事が出来る。
そして完全な官僚であった三成に比べ、吉継は完全な官僚とも言えない部分が多数の戦歴からも読み取れる。それはある意味、理想的な観念主義を全く否定せず、現実主義だけでもないという側面の表れであり、豊臣官僚派の中では少し独特の異彩を放っていたのではないかと思うのである。関ヶ原という歴史回転の決戦に向かう中で現れた武断派と官僚派の分断とは、もともと全く相いれない環境に置いて仕事をしてきた表れであり、その派閥間に中間派があまりにも介在していなかった結果なのであるが、大谷吉継を見る限り、数少ない中間派とも言えるのである。
よく会社でも営業という戦闘部隊と社長直属の内務系部署が反目するということがあるが、豊臣政権内もまさしくこのような感じだったと思うのである。
またもっと大きな見方をすれば、三成よりももっと大きな能力に恵まれていたにも関わらず、そこを敢えて前に出すことなく粛々と仕事を進め、地味ではあるが三成を始めとする官僚派とも武断派とも連携が取れる有能さを秀吉は最大限認めていたのかもしれない。そういう意味では三成をも操る兵站、戦術、軍略を含めた戦争の総指揮をとれる逸材だったかもしれない気がするのである。それはなぜそう思うかと言うと、豊臣秀吉存命中からの余りにも少なすぎる報償という点においてもそうだと思うのである。これはある意味独立した大名というよりも、なにか親衛隊長的な匂いがすごくするのである。大谷吉継の所領地はせいぜい5万石でしかない。三成で19万石である。これは一概に能力の差とみるよりも、より信頼を置いていた証拠ではないかと読み取れるのである。そこに地味ではあるが他の豊臣の大名よりも数段すぐれた能力を読みとることができる。。
また吉継の粛々とした仕事とは自らが犯された病魔からくるある種のニヒリズムもそこにあったように思う。最後、ハンセン病の悪化で馬にも乗れない、面体を他人に晒すこともできないという中での大きな決断には何か知らないが大きな夢?意地?いやそんなものとは違う、もっと飄々とした凄味を感じるのである。
有史上数多な英雄伝説はある。とくに判官びいきの強いこの国では敗れ去ったものの中にも大いなるヒーロー像を抱く。しかし、私が思うに、負けるべくして散っていったものたちとは、ある意味止むにやまれぬという自らの立場を貫いてということがほとんどなのである。それは楠木正成も真田幸村もそうだと思う。選択の余地はない。自らの立場からそういう道を選んだというよりも突き進んだ英雄だったと思うのである。
三成が英雄だったかどうかは別にし、三成の立場とはそういうものである。
しかし、吉継はそうとは違う。三成ほど家康に敵対していたわけではないし、家康に対して三成の立場を保つ懐柔策を献策したりもしている。そういう意味では、最大限譲ったとしても選択という猶予があり、十分勝側を判断出来たのである。しかし彼が選んだのは、三成というよりも三成の意地という、かなり個人的な感情から発露される実に危ういものであった。
それを考えると、明晰な判断力も持ち合せ、その判断の時間もあり、裏切りという謗りを受ける状況でもないながらあえて負ける側に力を貸して散った英雄とは、有史上、大谷吉継以外にはいないのじゃないか?と思うのである。明らかに明敏な状況判断ができ勝ち残ることのできる能力があるにも関わらず負ける公算の高い方に身を寄せ、そこで後世端倪すべからざるべき力を発揮し縦横無尽に戦いを挑んだその胆力に驚くのであるのと同時に、合力した理由が即物的な恩賞という目に見えたものを求めたわけではないことがこの時代において不可解極まりないのである。豊臣というものに対する恩義はもちろんなのだが、どうもその行動色彩が自分と同じ立場の三成に対してという決して先行きの見通しが明るくなく、負の公算が高い方へ遙かに強いものを発光しているのも不可思議なのである。
大谷吉継は間違いなく徳川家康に与することの決意を固めていた。後の時代を築くのも家康であることも認めていた。しかし土壇場で三成側につく。しかもその戦争の大義とは、どう考えても、個人的な遺恨が大半を占めるものでしかない。決して関ヶ原の初期は“義戦”と呼べるものではなかったはずである・・三成を中心とする勢力の復活が主たる戦争大義にしか客観的には見えなかったはずである。。
それを曲がりなりにも天下分け目の戦い、西軍にとって“義戦”にまで昇華したのは大谷吉継の知恵が如何なく発揮されたのはいうまでもない。そして本気に勝とうと策謀をめぐらしており、ある種勝てる可能性を掴んでいたから驚くのである。よく関ヶ原の陣形を見て、間違いなく西軍の勝利であるということが言われるが、野戦の達人である家康がのこのこそんな陣形に飲み込まれるのであろうか?
小早川秀秋の裏切りなど完全に読んでおりその対応策もとっていたし、その他の裏切りも読み取っていた。これは彼の陣形をみれば一目瞭然である。しかし最後その裏切りに総崩れとなる。おそらく彼は其処までをも読んでいて最後戦いに挑んでいたと思うのである。これは三成にどれほどの勝機を伝えていたかは分らないが・・ある意味自身で飲み込んでいたのだろうと思うのである。負け戦であるという結果を・・
関ヶ原の決戦で切腹し戦場で果てたのは吉継のみである。
それでも関ヶ原まで全力をあげて三成を支えたのは?
なぜ?
ここが分らない。後世の史家によりこのことは様々に書かれていて、大半が友情からということで纏まっているので、それに異を唱えるつもりは毛頭ない。私も同じようにそう考える。
しかし、なぜ?という事がひつこくつきまとう。
あまりにも大谷吉継が三成に与することにより引き換えにするものが大きすぎるから、誰しもが理解に苦しむのと同時に、この時代にまさか?と思う義挙に震えがくる・・・
二人は何に戦いを挑んだのだろうか?
もっと上手く立ち回れることのほうが遙かに大きな割合として存在したにも関わらず、豊臣の頭脳と呼べれた二人が・・
常にこの二人の関係を象徴する出来事で語られるシーンがある。
秀吉主催のある茶席、綺羅星の如く将が揃うなか茶碗の回し飲みが行われた。その時、吉継は回し飲みの茶碗の中に、不覚にも顔面のライ痩から“膿”を垂らしてしまった。日ごろ冷静沈着をもってしられる吉継も、頭の中が真っ白になり茶碗を回す手が震えた。すると、スッと手が伸びて茶碗を掌におさめるなり、膿の浮いた茶をなにごともなく飲み干した者がいる。それが三成だった。
三成にはもう一人盟友がいる。上杉家の宰相、直江兼続である。義の人だ。
この人も形は違うが同じような生きざまを後世に伝えている。
三成とは・・・不器用なまっすぐすぎる人間なのかもしれない。。
忠恕の人。
私は、豊臣の恩顧に対する“義”から孤立無援になり、孤軍でも時代の中で逆らい戦い続けることを決意した、友人を
ほっとけなかった・・んじゃないかと思う。
色々な事情はあっただろうが
最後の最後は
友人を
“ほっとけなかった”
吉継が全てをなくしても
駆け付け
全力をあげて助けたのは
それだけだったような気がしてならない。。
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投稿者 junca 23:57 | コメント(0) | トラックバック(1) | 人物
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