2008年01月29日(火)
花形敬のスカーフェイス 12 
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テレビの映画放送でブラッドピットの“セブン”を見た。
朝、新聞を見たときに不思議と目が吸い寄せられ、見なくてはと頭に刻んだ。
なぜなのか?理由はないが、私と良い映画(・・といっても今回はテレビだが・・)の出会いとはいつもこういう感じの偶然からの必然のような事が多い・・
良かった!
まず、絵が私好みだった。この映画の解説やレビューなどにもあるように、非常に陰影、コントラストの強い絵で、ともすれば見にくい画像なのだが、それ故に画面の中、見ている自分自身が実存しているかのような空気感が強く感じられ、画面以外の空間までをも含めて映画の中に埋没できたような気がした。それと同時に細かいアイテムに象徴的に使われる強い色調が映画のストーリーを暗示するかのような画面構成はなかなかのものであった。。
そして、私が最も特徴的に感じたのは、やたらと雨のシーンが多いことだ。雨は神経的になにか閉塞感を感じ、人間同士の関係をやたら密接にするような気がした。それが案外この映画の演出効果としては大きかったように思う。
この映画、ストーリーそのものはさほど凝っている?新鮮、斬新とは思えないが、これらの映像演出にかなり細かい仕事が施されていることによって完成度が高まったような気がする。
ストーリーは、中世のキリスト教の世界観がもっともよくあらわされているダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』煉獄篇・七つの大罪をモチーフに、猟奇的殺人者が、七つの大罪に見立てて連続殺人を行う。無差別猟奇的殺人ではなく、自らが神の裁きを代行し、罪深き行いに対し無関心な現代人に、七つの大罪を犯す象徴的な殺人対象者を綿密に選び出し、その殺人結果をもって暗に現代人に対し贖罪を啓蒙するのである。ここに異常者と正常者との精神的シンクロがあり表裏の心理が錯綜するような感覚が盛り込まれ、真実を凝視する。しかし、この手のストーリーは決して斬新なものではなく、ある意味タクシードライバーにしてもカッコーの巣の上でも、邦画の名作・19歳の地図も同じような手法によるものである。
私がこの映画にある種の関心を寄せ、新鮮さを感じたのは、『神曲』煉獄篇・七つの大罪である。
七つの大罪とは以下のようなものである。
1. 傲慢
2. 嫉妬
3. 憤怒
4. 怠惰
5. 強欲
6. 暴食
7. 色欲
このキリスト教の感覚が非常に面白かったというか、実に端的に人間の行いを表現しきっているなぁ?と関心させられたのである。罪を特化したベースにしたが故に、精神異常者の曖昧な殺人ではなく、ある種の正義に見紛うような原理主義的殺人、明確な人間の欲望や感情に対する怒りの鉄鎚表現と現代の空間の常識がぶつかり、混じり合うことなく理解し得ない感情がダイレクトに受け止められたことがこの映画の優れた点だったような気がしたのである。悪魔と神、神と悪魔、人間が罪に導かれることとは?という日常知らず知らずに犯している罪に、他人に対し、また自分に対しても無関心な大きな罪があるという事にぶつかり、猟奇的な殺人現場がただ単なる表面的な罪でしかなく、実は法の拘束以外に人間は心の中に大きな罪を有し、日々知らずに犯しているという危うさを感じるのである。その境界とは意外と誰の心の中にも存在する。境界によって人が分かれているわけではなく、人の心の中にその境界が存在するのである・・・それを超えず、また自らの立ち位置を常に把握し繋ぎとめるものとは一体なんなのか?映画のラストは“嫉妬”と“憤怒”という罪に仮託した殺人で幕を下ろす。しかし、この憤怒は猟奇的殺人者の罪ではなく、犯人を追いかける刑事が犯してしまう・・・
私はこの七つの大罪を文字にし眺めるにつけ大きく感じるのは、これは誰もが持っている感情であるということと、そのどれもが日常特別に特化するわけではなく、平均的に誰の心の中にも存在する事を・・
また逆に確かに、この七つが人間の心を突き抜け、その行動が具体的に法の拘束を超える位置に達すると、誰しもが犯罪者になると・・・
もうひとつ、極論かもしれないが
この感情と高い次元でスレスレに付き合い、確信的に普通の社会生活者と接点をもっているのが
やくざ、なのでは?とも思うのである。
人間本来だれもが持つこの七つの感情とそこから法的な拘束との間には不明瞭だがある種のゾーンが存在する。普通の人間からみれば確実に突き抜けた罪深きゾーンではあるのだが、現実的社会の法的拘束内であり、モラトリアムのゾーンが存在する。そこに蠢き生きているのがやくざなのではないか?と仮定するのである。
このゾーンに突き抜けていくにはそれなりのモチベーションが誰しも存在するはずなのだ。それは個人の置かれた境遇が大きな要因となるのが大半なのだと思うのだが、唯一、日本人誰しもがその境遇に置かれた瞬間があった。
それが戦後だったんじゃないだろうか?
そしてこのゾーンが一番膨張したのではないだろうか?
この瞬間、日本人が皆平衡感覚を無くし、ゾーンに突き抜けた。特に若者は・・・・
戦後の愚連隊出現の背景とは、この七つの罪に何の抵抗もなく突き抜けられる境遇を得た若者の狂奔だったような気がしてならない。ある種の正義を感じた若者も多かったような気がするのである。しかしこれは、先ほど書いた、確信的なゾーンに生息するやくざとはまったくの異種であり、本来的には駆逐される存在となる。罪の意識が違うのである。偶然突き抜けてしまった者と、確信的に出張って生息するものとでは、そのゾーンでの生きる意義の大きさが違い過ぎ、またゾーンの幅の把握においても違い、常に高い次元での法的拘束以外の伸縮性は見出せないのと同時に、ここが一番の違いなのだと思うのであるが、偶然このゾーンの環境を得たものは、何かの理由やエネルギーがないと、普通のストイックな一般の罪を押し殺した生活者の中に埋没してしまうのである。だから常に全力でゾーンの中に生き続けないとすぐにゾーンから放逐されてしまうのである。
花形敬の最後を思うとき、この人はある意味愚連隊らしい愚連隊だったのだと・・
最近読んだ文章の中に、最後、安藤組の組長代行を担わされたのであるが、その時組には往年の勢いは失せていたどころか、命を狙われる立場になっていた。その難を逃れるがため、本居地を離れ川崎に隠れ家を設けるのであるが、頻繁に繁華街に出入りしており、その姿の後をつけられ、
最後計画的に刺殺されている。あまりにもあっけなく・・天下無双のステゴロ師が・・
これを見たとき感じた。隠れ家から頻繁に“けもの道”に帰るのは、決して暗殺に恐怖していないという事を表す虚勢ではないと・・・自らが愚連隊であることの確信を感じられるようにする行動だったのでは?と思うのである。
しかし、伝説に似合わない最後だった。
「先生、僕ならだいじょうぶです」
花形が5歳のとき、近くの下水に落ちて大けがをした。手術台の上で医者が目隠しをして注射を打とうとしたときの言葉だ・・
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