2007年04月17日(火)
ロビンソンの庭 
amazon.co.jpで ロビンソンの庭 を探す
6時だったか?
薄暗くなりかけていた。。
大阪・梅田・・
今から20年前。。
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「おーい!こっちこっち!」
「あっ!先輩!すいません。慣れないもんで大阪!待ちました?」
「いや!俺も今来たとこだよ!それより腹減らん?」
「あっ、そうですね。」
「まだ時間あるから飯いこ!安い寿司屋がこの先にあるから!」
「えぇ?寿司ですか?俺、金ないですけど・・・」
「大丈夫!」
ってなことで先輩と待ち合わせし、梅田の小さな映画館へ向かった。
私のブログは自分自身では基本的には日記と定義している。
しかし、世の中の一般的なイメージとしてのその日あった事を記載するという定義からは
大きく外れているかもしれない。
しかし、最近にあったこと、以前に感じたこと、昔の話、いずれの内容にしても、基本的には書く直前に考えていた、頭の中にその日過ったものであり、私にとってはその日考えていたという意味において日記としている。
大体、私のような普通のサラリーマンの日常など書いても・・・というより元来、なんど試しても書けなかったのである。所謂世間一般がイメージする日記という代物が・・・・
子供時代の絵日記ですら私は半分くらい虚偽報告があった。。。。。。。。
まぁ、どうでもいいことなのだが、なんでこんな事を書くかというと、またしても突如キーワードが頭を過った!!!
なんとも不思議なのだが、突如、どこから?なんで?こんな事思い出すの・・・いやなんで
突如頭のなかにこんなキーワードが浮かぶの?というのが出てくる。。。
これが私の日記の根幹である・・
それは、私の定義とする日記のテーマが電光石火の如く頭の中を通り過ぎた瞬間である!!!
なにか、この日の啓示!である!
今回のそれは!
「ロビンソンの庭」
20年前、映画好きの先輩と見た映画である。。
20年前、1987年、この時分ンの映画界、日本の映画界は正直、崩壊寸前だったような感じがする。
今のような確実な商業ベースが確立されておらず、大半が洋画か、大手配給のくだらないもの、犬が主人公なんかのつまらない映画が封切館で上映されており、骨太な尖ったものはほとんどが自主映画や小劇場配給のものであった。
映画は儲からないというのが定説であったが、この時分とこの時分より少し前の監督が私は大好きである。
洋画の名作なんかほとんど見た覚えがない。
どうも、嘘くさく感じ、レストランの高い食事のように感じた。虚飾?
邦画の安っぽさが、なんとも居心地のよい居酒屋のようで心地よかった・・・・・
そんな状況のなかで「ロビンソンの庭」という映画が突如出現し、我々若者は衝撃をもって迎えた。。
すげぇ!Punk is it!!
他にも「ゆきゆきて神軍」なんていうとんでもないドキュメンタリー映画も話題であった。
いずれにしても、どれもが“パンク”な匂いに満ち溢れたいた。
どう考えても商業的な成功を前提としてつくられていない芸術志向であり、分らないもの、嫌悪するもの、批判などどこ吹く風的に、寄せ付けない強さがあった。
なによりも、大衆迎合や権力迎合・ポピュラリズムなどとは無縁であり、アナーキーであった。。
私も若かったせいもあり強烈にこれらの動きにはひきつけられた。何よりも「ロビンソンの庭」には不思議な魅力を感じていた。そんな時、映画好きであるI先輩に誘われたのである。
もともと私の映画志向の原点は中学・高校時代の深夜に見た“ATG”映画にあった。
映画そのものが好きというより、日本の若い監督が自主制作に近い形で作った映画が大好きなのである。ドラマティック、ダイナミズム、エンターテイメント、などの対極にある、なんとも日本的な湿気感充満のジメジメしたミニマリズムがなんとも肌合いが合い好きなのである。。
周りの皆は現代日本映画を糞みそに批判したが、そのつど私は抗弁した。
そうかなぁ?
素晴らしいと思うけどなぁ?
アメリカの勧善懲悪の脳みその皺が伸びきったようなアホ映画よりはもちろん、
日本で世界的に認められている、小津や黒沢や溝口なんかより、優れていると思うけどなぁ?現代という次元で考えれば?
なんで、みんな馬鹿にするのかなぁ?
などと常に考えていた。。
先輩は全般的に映画を見ており、映画の一つの流れとしてこれらの映画を参考程度に考えていたのかも知れない。基本的な映画の捉えかたが私とは根本的に違うというのは明確に感じていた。。
その筈である、その後、卒業した先輩は大手映画会社のT社に入社した。それほどレベルの高い映画マニアであったのだ。しかし先輩とは何故かウマが合い、ちょくちょく映画の話をし、盛り上がった。。また偏重傾向の強い映画好きの私を先輩は面白がったのか、何かにつけ可愛がってもらった。。
この日のロビンソンの選択も先輩からだった。
「明日いくぞ!」
実は、こう書くと「ロビンソンの庭」とは私にとって大きな意味のある映画のようだが、
正直内容をほとんど覚えていない。。
覚えているのは、その当時熱狂した自分の高揚した記憶のみである。。。。
ネットでこの映画のことを改めて調べた。ストーリーの要約なども読んだがいまいち思い出せない・・・・
しかし、この映画の脚本家のブログが偶然目にとまった。
あぁ!思い出した!
都市のなかに存在する廃墟。
都市という意味ばかりを追求する空間に、厳然と存在する無意味な空間。
その中に溶け込む人間・・人間というより生命。地球という次元の森羅万象の一存在として。
無意味なものに大きな意味が存在する。存在することに大きな意味が存在する。
その大きさを感じられるか?
即物的な現世利益という意味だけが意味と考えるものに対する対極としての意味。
なぜ存在の意味を求め続け、疲弊し続けるのか??
答えがでるのか?
その意味というものには??
我々人間が出現する以前、もともと存在した自然とは我々が求める意味とは別の次元で存在し、われわれの命にとって必要不可欠である存在と考えるが、それは自然がそのために存在しているわけではないことは明らかであり、その意味からすると自然は我々が考える意味とは合致せず、ある意味自然にとって我々は無意味な存在なのかもしれない。真の自然が持つ意味とは?それは我々にはわからない。しかし、自然の存在を超える人間などは存在することはない。そういう意味では自然からわれわれを見ると邪魔であり、無意味な存在であるはずで、われわれも所詮自然のパーツでしかないのかもしれない。
月から地球を見ると人間の存在など確認することはできない。
ある意味地球が美しく太古から連綿と続く姿を保持するためには、われわれの存在など無意味どころか、本来必要としないものなのかもしれない!
所詮われわれが“意味”や“意義”などと大層に叫んでいるものなど、次元を変えれば無いに等しい。そういう次元からすると明らかに無意味にしか見えない。
なんていう小難しいことを考えるのがカッコよく、このロビンソンなんかもこういった感覚の象徴のように感じた。しかし、あの時分、モラトリアムなんていう言葉が流行り、アーバンな虚無感がなんとも言えずカッコよかった時代であり、トマソン理論などというわけのわからないものに、分ったような顔をしていた。。
先輩と映画を見たあと、なんかこんな議論をしたような気がする。
ロビンソンが優れているのは!なんていう青臭いのを・・・
でも結局、本当はよくわからなかった・・・それが正直なところだ・・
この映画、今からグーと思い返すと、頭で理解するというより、五感で感じる映画のような気がする・・・
それなりの論評を受け付けるに足る優れたものであることは間違いないが、しかし肉感的な合致を見るものは難しいんじゃないだろうか??
当時の論評も確か大きく二つに割れていたんじゃないかなぁ?
スカスカの内容!なんていう酷評もあったような気がする。。
いずれにしても20年前、興奮した映画であることには違いない。
先輩はその後、大手映画会社を退職した。退職前、飲みにいきそのことを打ち明けられた。
私は生意気にも反対した。せっかく入った、夢にしていた映画という世界の仕事じゃないかと!
しかし、先輩は
「映画会社に入ったけど、俺の好きな映画という世界がないんだよ、この仕事には・・」
そう言って、その数ヶ月後先輩はニューヨークに渡った。
そして中国出身の女性と結婚し、今も向こうで映画の仕事に携わっていると風の便りに聞いた。
たまに映画のエンディング・クレジットにその名が流れることがあるらしい。
思い出深い感覚をよみがえらせてくれる映画だ。
「ロビンソンの庭」
なんで、今日こんな事を思い出したのであろう??
それなりの意味があったのだろうか?
などと考えることがすでに無意味の局地なのだが・・
この無意味なことをブログというもので意味を求め・・・
ブログが存在するだけで・・・・
あー
もう、どうでもいいや・・・
チャンチャン!

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