2007年03月18日(日)
電脳警察 
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思い返せば、私は勉強の中でもこの方向が大の苦手であった。
学生時代の成績を思い返しても良かったためしがない、平均60~70点台だったと思う。
80点などが一年で数回、90点台になると12年間であったのか無かったのか判然としない。
その程度である。だから進路となると選べるレベルではなく、文句なく“文系”であり、周りからの客観的判断ではなく、自分自身でも盲目的にそうだと了解していた。
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しかし、最近になってフッと感じることがある。。
嫌いではない。
確かに算数や数学というものの教本を見れば、当然今でも間違いなく拒否反応、拒絶するとは思う、しかし、数学的論理性みたいなものには何故か惹かれていく。
学校の勉強で結果が出なかったため、自分には向いていない、そういう指向性が先天的にはないと勝手に感じてしまったような気がする。
しかし、よくよく考えると世の中全般を見渡すと、あらゆる事象は数学的論理性というオペレーションシステムに操作されているのではないかなぁ?などと漠然と考えてしまう。
よく感性とか情緒とか抒情とか現存する数値判別がないものには、数学的論理性を整合させようとはしないが、そういった感情的要素を生み出す根本的システム自体は、本来数学的論理性から判断できる要素を兼ね備えている。単純に考えても、今このように書いている文章も、私の知能と肉体を駆使して生み出しているのだが、その根本的要素は数学的な論理性で考えられる叡智システムから作用している。恐ろしい情報量から肉体の中にあるCPUが作動し構成をかけている。各ソフトが単独で稼働するのではなく、同次元多発で稼働している。
もともと蓄積された情報処理の成長型ソフトコンテンツが増殖しているのではないだろうか?それらはある種の数値で理解できるような気がする。
車が動く原理を理解せずとも車は動かせることができ、送信機器にしても原理をしらなくても使用している。動かし方は様々である。この部分がともすれば感情的部分に合致しなくもない。。
分らないのは以前も書いたが、エレルギーやCPUのスタートボタン、それと、なぜそれらが備わったかだけではないかなぁ?なぜ心臓は動きだすのか?なぜ肉体は老化していくのか?スタートが判然としないから、不老不死要素を中途で加味できず、肉体の疲弊を最低限に抑える措置しか出来ていない。パソコンが終了のシステムを兼ね備えていない場合、おそらくパニックになるだろう。強制にても終了できない、もしくは再起動できないと、その電源をどのように維持するか?
いかに故障しないようにするか?それまでの情報をどのように維持するのか?
それはある種の将来に対する大きな不安要素になるだろう。。もともとのスタートが判然としないから電源が切れないのだ。
こう書くと、そんなものはコンセント、ということになるが、じゃその先の電源は?と考えると、原子力や様々な電力開発要素を挙げることになる、じゃもっと進んで、それらは何から出来るのとなると、科学物質などの作用や自然条件などになる。しかし、その条件はどこから生まれたという根本まで行くと、最終的には地球創造の世界までたどり着く。しかしながらその条件は?となると太陽やそれぞれの宇宙の条件が揃う瞬間が必要となり、この要素を考えると地球の現在の時間観念から超越した次元になる。また、なぜ太陽が燃え続けているのか
この地球ができた条件が永劫として保てるのか?などと結論がでないものが存在するのと同じではないかと思う。しかし、ある程度の推論を働かし数学的論理性がないと様々な現象、それは結論のない中間段階かもしれないが、発展、維持もままならないであろう。
この不明瞭な部分を解釈するソフトとして宗教的要素を人類は多く用いてきた。しかし宗教の根本教理もじつは数学的な論理性の展開に近いような気がする。曼荼羅などはその最たるものの結晶なのではと考えてしまう。
ただ、その根本部分が判然としないから、論理的にそれぞれの宗教が教理を組み立てているが、答えはあるようでない。。
このことが数学的な論理性からくる結論に結び付かないだけで、実のところ大半の部分は現存の数値で識別であったり、判断であったり、方向性が読み解け導き出せるような気がする。。
以前、養老猛が語っていたが、論理的には人間が人間を人為的には作り出せると語っていた。しかし、その必要要素を数値的判断から類推すると、現在の情報量の単位では足りないらしい。ギガやテラなど到底及ばないどころか、想像の絶海的レベルらしい。このことから数学的論理性に立ち返ることができると、現在の人間の英知レベルでは人間という存在はとりあえず“奇跡”の結晶としか理解できないのと同時に、こんなものを簡単に停止、いわゆる殺人や自殺などは恐ろしくてできないと考えるらしい。二度とできないものらしい。
そういう意味では、かけがえのないというこの感情的支配は数学的論理性とも合一する。
現在この人間が人間を作るという行為、所謂ロボット工学が飛躍的に進歩しているような気がする。先般の愛知博で出品されたトヨタのi―FOOTやi―UNITなどは数年前だとマンガやアニメの世界の産物であった。またそれより数年前にホンダやソニーが開発した自律型の頭脳をもったロボットなどはまさしく子供の時分に想像していた世界が出現したようなものだった。所謂アトム、であり我々世代だとロボコンなどである。
これはコンピューター世界の飛躍的発展でそれまでの情報量から超越的な演算機能が具体化して得られた結果であり、そういう意味では人間的要素の具体化を試みる数学的論理性の結晶であり、人間自体を研究するある意味宗教的教理の実践にも近い気がする。
ロボットの世界も一つの流れがあるように思う。戦後から現在までのロボットの役割は大量生産上の補助もしくは生産そのものを支えるために製作されてきたが、現在のコンセプトは人体的機能の補助が主力であり、その可能性を模索し続けている。これは産業構造として、商売相手、需要予測として人間の高度老齢化社会へのプレゼンテーションでもあるが、結局、単純な作業機械のレベルを脱し人間理解を人間が進めている端緒とも想像ができる。
最終的には人間そのものにダイレクトに結びつく部分の開発発展が現代から未来にかけての大きな課題であり、その部分がビジネス的な展開には不可欠になりつつあるのだろうなぁと考えられる。やはり究極は“共産主義社会”への夢想かもしれない。死ぬこと、寿命が延びるに従い、必ず人間の競争原理は低下し、いかに社会を維持するかを考えると、そのとき初めて共産主義はバランスを取り戻すような気もする。死なないと分ると人間は如何に時間を過ごすのであろう。それは数学的論理性の逆説的投げかけでもある。
マルクスとレーニンの失敗は時間という関数を計算から忘れたことである。資本主義の成熟後の共産世界などというのは論理的展開からすると脆弱でしかない。人間は時間的制約から解放されなければ必ず競争原理を発揮する。それを開放するのは科学的な発展、いわゆる数学的論理の発展からくる科学の成熟でしかない。あらゆる芸術が科学産業の興隆を否定的にとらえる傾向があるが、しかし本質は人間回帰などというスローガンそのものが本質的には数学的論理の高度な精密化につながるような気がしている。それこそが人間が人間を知る唯一人間に与えられた手段ではないのだろうか?決して瞬間的に得られる高揚感では人間というものは理解できないし、それは本来前述のとおり数学的論理性から得ることができる産物でしかない。
肉体的機能の補助、とくに各パーツに関してはかなり発展進歩を現実的に遂げている。立てない人間の補助をする機能や、腕や指が思うように動かない人に対して、人間の判断に即応するような機能を兼ね備えたパーツは実用間近と聞く。最終的にはロボットスーツなるものが出来るのは間違いないであろう。。
これはある意味人間の肉体的部分から考察をかけるものであり、ハードパワーの部分である。
この部分は早晩簡単にクリアできるであろう。
しかし、英知の部分、ソフトはどうなのであろう?これは人間の考えを超えるものは原則的には作れない。知能という部分では経験則を記憶させ、その中で展開を経験していくことまでは可能だが、まったく経験したことのない数値の捻出はまだまだ難しいのが現状ではないだろうか?この部分の数学的論理性の展開が実はできていない。だから人間型自律ロボットは論理的にできてもそのレベルはまだまだアトムやロボコンには至っていない。
が、先日ハッと気づいたことがある。
これまで書いてきたことは、単体のハードパワーに対するソフト内蔵の可否でしかない。
ソフトそのものが人間をハード化する逆説的ロボット概念は考えられないだろうか?
その考えの起爆になったのは、今世間を騒がせている、ファイル共有ソフト“ウィニー”である。所謂インターネットは相互に通信が可能であり、距離時間を今までの観念からは劇的に開放させた。しかしこれは主体的動作があってこそ可動し、すべて人為的操作との連動でしかない。しかしある意味サーバーと呼ばれる電脳倉庫が存在しそこまで行けば皆が同様の恩恵を被ることが出来る。そういう意味では人類の頭脳と呼べなくもない。
しかし限界もある。この頭脳は小分けであり所有者が存在していて、所有者に管理されている。だが、ウィニーはどうであろうか?完全に所有者が存在していない。それぞれのパソコンを駆け回り必要な情報をつまみ出してくる。これはある種の知能が内包されていると考えられなくもないし、ある意味制限がないから人類共有の頭脳と考えてもおかしくない。これは我々個々人からの主体的考えである。しかしウィニーというソフト側から見るとわれわれ人間は末端の端子でしかない。ウィニーを主体的に考えると人類はウィニーという頭脳らしきものが支配し始めていると考えられる。時間が経つにつれ情報がウィニーの中で確実に増殖している。
事実、この電脳空間に存在する英知は人為的には現在消滅させることができないのだ。ここで大きな問題が出てくる。一つは知的所有権という問題である。
現在の裁判で金科玉条のような城壁であるこの部分が完全に崩壊してしまうのである。なにが崩壊するかというと、取り締まれないのである。ウィニーという頭脳側から考えると、明らかにウィニーの知識でしかない。ここに個々人の所有権などは存在しないし。単純に消滅できなければ取締もできないし、罰則もかけられない、それどころかウィニーというソフトをどう罰するのか?だから現在開発者が司直の手に渡っている。これは本質的には間違いのような気がする。もともと法的根拠がないものを見せしめ的に罰しようとしている気がする。
ここにすでに電脳的規範を超えられない人間の限界を露呈している。電子頭脳に支配されているのである。だから、パンドラの箱はすでに開かれてしまったのだ。。
赤信号みんなで渡れば怖くないという今では古典になったブラックユーモアの本質がここには存在する。社会的規範など実は脆いものなのである。個々の倫理の集合がその根底を支えているということでしかないのである。ひとつそれが崩れれば、もしくは収集がつかなくなればそんなものは雲散霧消する。
もう一つ、実は自然な倫理観がこの電脳には存在する。
ある人からある事件を聞いた。大手電機メーカ社員のPCから情報が流出した。そこには付き合っている女性の裸の画像があり、これがファイル共有ソフト上に流出したのである。
これが事件の状況なのだが、問題の本質はなにか?この女性のプライバシーは完全に封殺されているという事である。いかにしようともこの画像は消すことはできない。今の概念では永遠にネットという電脳空間上に存在し続けるのである。これは女性のこれからの人生を考えると看過できない事象であるが、現実でもある。これはいろんな考え方ができるが、ある意味付き合って愛しているといってもその痴情のすべてを記録情報として残しているということが本来の倫理や道徳観からすると如何なものなのか?そう考えるとある意味その行為を罰せられていると考えられなくもない。重要官庁の情報が流出するなどはもってのほかなのだが、現実、個人的な範疇で動かすことができる組織の綱紀は一体何なのかと考えさせられてしまう。そのような結果をファイル共有ソフトは断罪する側面を内包している。しかし、どのように取り締まるのかは困難であり、結果的な部分でしか対処できないし、流出したものを回収することは不可能に近い。そういう現実にこれからどのように対応するのだろうか?
もし対応するとしたら、個人というものを無くすしかない。ウィニー的な電子頭脳により全人類が管理されれば、相互の競争や軋轢は必要なくなるし、個々人の知的財産など必要なくなる。これはある意味共産主義である。
もしくは個々人の倫理感や公徳心、道徳などにより管理していくしか方法はない。しかしこちらはすこし現実を考えると鉄壁さに欠けると判断せざる負えない。
どちらにしても国家も法律もない。あっても規範として有効ならざるものに意味は見出さないだろう。国民の安全を保障出来ないものは!
ジョンレノンのイマジンをブラックユーモア的解釈すれば、戦争もなければ争いもない世界がある意味近づいているのかもしれない。。
考えてごらん♪
ではなく
考えるな!ということで!!
しかし
我々人間は考え続けるのだろう。
数学的論理性に支配されない存在であるという事を
そういうものを超越するエネルギーを確認するために。

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