2007年02月03日(土)
黄金の茶室 
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一般には豊臣秀吉がその権勢を誇示するために作ったものとの認識があり、侘びや寂びという利休が確立した茶の世界の対極に位置している。
当時そして現代においてもその印象は、成り上がりの露悪趣味として捉えられており、利休から流れを汲む茶室に比べ醜悪至極であると断罪されている。その歴史的位置づけは、天皇に献茶を行なうという権勢誇示の一大イベントのために造作されたパビリオンのようなものであり、また別の解釈としては利休の推進する侘茶の世界に対するアンチテーゼとも捉えられている傾向がある。
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自分が現世のあらゆるヒエラルキーの頂点であり、全ての行いは権力者である自分の懐の中で起きるはずなのに、利休が作り上げた芸術の世界においては、時の権力者すら歯牙にかけない状態に大きな憤り?嫉妬を感じ、その対極を具現化、侘び寂びに対する煌びやかな空間を現出し、侘び寂びという芸術性を飛び越え、表面的な印象からくる“貧乏臭い世界観に対する罵倒、嘲笑を投げかけたような感情を黄金の茶室は性格として持たされた。
現在、この茶室を文献から考察し復元されたものが各所に存在する。
純然たる歴史的検証とその来歴を帯びた茶室という興味ではなく、秀吉が掴んだ天下というものに対する想像をかき立てる代物として、展覧場では鑑賞する人間の興味を引き付けている。
私は、茶はしない。そして現代の茶道界にも興味はない。しかし戦国期に花開いたこの文化自体には興味がある。この文化を飛躍的に発展させる素地を築き上たのは間違いなく利休であろう。しかしそれは、創作、芸術家としてである。全体的な文化のプロデューサーとしてはやはり織田信長だったのではないかと私は思う。
信長なくしては利休を初めとする茶人と呼ばれる芸術家は大成しなかったと思う。信長以降、いや彼以前の大名も含め、幕末までそうなのだが、大名は彼らに茶頭というポジションを与え、芸術家として庇護しつづける。しかし、信長のプロデュースは、後の大名が行なった庇護とは明らかに一線を画する。
信長が後年の大名と違う最大のポイントは、“価値”を発見したのである。
信長は重商主義である。基本的な国家形成概念は、商業を軸としてとらえていたように思う。
それは貨幣を初めとする流通などを国家の中心に置き、兵隊軍人すらも専業という職業性を打ち出したのも信長が最初である。そして情緒的な上下の関係ではなく、信賞必罰、成果主義も彼の組織運営の柱であった。
その彼が新たに発見した価値とは、等価性のない芸術という無限の価値を生み出す行為と、それを作り出すアーティスト、そして彼らが直接的間接的に関与する“作品”と呼ばれるものであった。そこにはそれまで流通していた商品という概念ではなく、物としての相対的価値判断が整然としない“作品”という新たな価値が含まれており、それを自分の国家形成上有益な概念としてプロデュースしたのである。
極端には、茶壷一つが一国に値するという価値形成は、信長が最初に公論として最大規模に確立したと考えられる。茶会の開催も許可(この場合恩賞に値する)を与え、許可をもらう為に皆が争ったなどという価値観は信長以前の大名には皆無であり、また茶会許可という価値観そのものは、戦争して一国を奪うそして与えることからするとかなりのローコストとしての恩賞が生み出せるのである。費用対効果から考えてもかなりの即効性を発揮する。
プロデューサーとしてその概念を具体的に形成する上で、利休と言う不世出のアーティストは必要不可欠な存在となった。また、利休にしても、茶及び自身の芸術発展には信長というパトロンは絶好の存在として映ったに違いない。目的は違えども、お互いの手段が合致したことに疑問を挟む余地はなかったのではないだろうか?そして目的は相違するが最終的結論から考えても相互に不都合が生まれる部分も少ないように感じられる。現代に至る芸術という世界は、所詮金持ち権力者が介在してこそはじめて成立する側面を持っている。流通という経済が備わらないでは成立しないし、芸術家が芸術家たる位置を世の中では確立できない。経済と無縁の立場で芸術家と言っても、それは趣味人としてしか客観的には捉えられない。利休という芸術家の存在の新しさは、それまで完全に家来的技術者であった、それぞれの技巧分野を、フリーな立場で契約的な形を持って表現したところにある。そしてそれを信長という希代のプロデューサーに見出され世の中に表出していった事に、茶という文化の発展側面がある。お抱え!という概念で家中の宝などという狭小な概念でないことは一目瞭然であろう。
ここまで利休は良かったと思う。セルフプロデュースにも大成功を納めた。
しかし、この後イレギュラーな権力交替劇が発生する。本能寺である。
秀吉権勢初期、利休は理想を持ちつつも権力者の良きアートディレクターとして秀吉を支えたであろう。
関係も良好であったはずである。しかし、最大に相違していったのは、信長と共に作った価値観、
それはある種協同作業のようなものであったと思うが、秀吉は利休という存在の正当な価値を理解できなかった。利休の存在そのものも、信長から自分への権力が移乗した時に相続したとしてしか理解していなかったのではないだろうか??
秀吉からすると自分を飛び越えた価値の創出者など、存在として理解できよう筈も無い。
このポイントから利休と秀吉は解離していったと思う。
そして利休にしても秀吉に対する悪感情がなかったなどとは言い切れない。それは言葉悪いが“成り上がり者”“百姓上り”という感情が心の奥底にあったのではないだろうか?信長という存在とのコントラストとして秀吉を常に比較していたのは間違いないであろうし、将来的な茶の世界観についてもすくなからず悲観的になったであろう。
どこかの時点でそれら悲観要素に対する防波堤が必要になると言うことは感じていたであろう。
私の考える利休と秀吉の対峙した関係とはそういったものであり、その形の表れとして黄金の茶室というものが出来たと考えていた。
しかし、先日この復元茶室を見た。
正直な印象として、あれっ??と思った。。
露悪趣味でもなければ醜悪さもない。。それどころか静かで凛としたものを感じた。
もちろんライティングの関係もあるのだろう。少し薄暗い環境の中にあった。しかし当時のライト、光量を考えるとまず間違いなく薄暗い環境であったであろうし、そんなにこの見え方に大差はなかったと判断できる。
そうなると??うーん??
秀吉の権勢誇示の象徴であることは間違いないが、一体誰がこの意匠を考えたのか??
ひょっとして利休??
という感想が胸を突き上げた。。そしてなぜか自分の中でこれは間違いなく利休が作ったと確信した。。
金という素材は、“金ピカ”という言葉が示すとおり、なぜかチャラチャラし印象を持つ。しかし金の素材自体は実は深い印象をもったものであり、これだけ科学が進んだ世の中にあって印刷技術の世界では、その再現がまだ確立されていないのである。それは、金は色では無いのである。細かい粒子から構成される物質であり、見る角度によって光の反射が異なり、色の陰影が変化するのである。だからインクによる再現が現在でも不可能なのである。例えばカメラで撮影したとしても正面から撮影したものと、斜め、もしくは横ではその陰の出来方がマチマチであり、全体の正確な色彩は掴み取れないのである。
この金という不可解な色彩が占拠した空間である黄金の茶室には、不思議な印象が体を支配する。
ましてや文献から分かるのであるが、この茶室の障子、畳は全て朱色なのである。金と赤のコントラスト…すごいゴテゴテ感があるようだが、実際にはなんともいえない緊迫した空気が生まれるのである。。
侘びの茶室と明らかに空間の色彩構成は違うのだが、しかし空間が訴えかける意味という点では少し類似するものを感じなくはない。それよりも強烈な拘束感を黄金の茶室は感じ、頭よりも体に響くような感覚が生まれてくる。
ただの金箔を貼り付けただけの“箱”では無いのである。そこには赤とのコントラスト、金という素材の放つ色彩の微妙さが、かなり精密に計算されたものが見受けられるのである。。
こうなるとただの建築職人の技ではないのは明らかで、確実にアーティストの感性が計算として盛り込まれていると考えても不思議ではない。ここまでの計算が出来る次元の高い芸術家と言えば間違いなく利休であろう。
利休は最初から侘びや寂びの世界観だけの人だったのだろうか?
私は違うと思う。侘びや寂びへの方向性に突き進んだのは自身の表現結論だったような気がする。
その結論がでるまでは、たぶん利休が表現する茶の世界観は大きく触れていたのではないだろうか。そして秀吉という権力者との距離も具体的には出来なかったのではないだろうか??
利休の“好み”や“名物”という概念は、明らかに唐物というそれまでの絶対的価値に対する新たな価値創出の挑戦であり、これからも新たな茶の世界の創造的行為が読み取れる。
それまでの価値を打ち壊し、新たに創造するアナーキー的、パンクな行動。。
侘び寂びの対極にある雅やかな空間世界への可能性ももちろん視野にはあったと思う。また、茶の日常性、インテリアという事についても考察したであろう。以前利休の作る茶室の図面を見たことがある。平面図ではないのである。飛び出す絵本のように組み立て式であり、現在の建築設計士が手掛ける模型のようなものなのである。これから考えても視覚的な効果だけではなく、空間表現の可能性をかなり模索していたのではないだろうか?その中にあって秀吉が天皇に対して行なう献茶のイベントにこの黄金の茶室プランをプレゼンテーションしたとしてもおかしくない。
実際、この茶室の色彩コントラストについてはある方が述べられているが、ある種海外、異文化の影響を取り込んだ部分が見受けられる。それこそが新しい茶文化に対する挑戦だったのではないか?
金と赤という色彩からただちに連想されるのはカトリック教の司祭の礼装である。
当時の堺の町にはフロイス以下の宣教師たちが盛んに布教活動を続けていた。その強い影響があったと考えるべきなのであろう。 ついでにいえば、茶の湯の基本作法の一つである一碗の濃茶を主客飲みまわす行為には、カトリック教の重要な聖体拝領の儀式で、キリストの血に見立てた赤ワインを金や銀のカップで飲みまわすことの、濃い投影があるとも考えられるのである。
事実、時系列で見ても、利休が追放という具体的疎外をうけるのは、切腹10ヶ月前である。それまで燻った火種がそれぞれの心の奥にあったかもしれないが、表面的な反抗や対立はなかったはずである。この時間的側面を考えても、黄金茶室製作時分、利休の気持ちの中に最終局面的感情はなかったかもしれないし、ひょっとすると茶の新たな世界観の模索の実例として黄金茶室の製作をプレゼンしたという可能性は相当な確率で存在すると判断できる。だからこの時点で黄金の茶室の創意は後世伝わるような形のものではなく、利休自らが設計意匠を考えたのではないだろうか???権力者に寄り添うアーティストとしてこの時点では立場を保持していたのであろう。。
現代で言うと誰であろう??平山何某が一番近いかなぁ??
私は復元茶室の実物を見たときそのように実感した。
歴史の中で両者が迎えた結末の象徴的な産物としての印象に摩り替り、実際の製作時点にあった両者の思惑が変質したのだろうと考える。
しかし、ここまで後世に象徴的に印象付けられた背景には、やはり、利休の終焉があまりにも強烈であったからなのだろう。最高の芸術家という称号から一転罪人に変化するという。。
茶人であり切腹というのも奇異な感じを受ける。明らかに侍としての処遇であり、罪過を問う側の作為を感じる。自分達の次元であくまで一介の家来として処断したような印象すらある。
先に述べた秀吉との解離は早い段階から心底にはあった、そして、いつか自分の芸術と茶世界の防波堤の必要性を感じつつ、それでも具体的な自らの世界の防御を行なう事無く、権勢に追随し、後世、秀吉の露悪趣味の権化となした黄金茶室まで製作していた利休が、突如反抗に転じたのは何故だったのであろう???頑なな。。。取り成す大名は多かったはずであるし、間違いなく七哲は奔走したであろう。。
だが、利休が秀吉に謝する事はなかった。。
しかし、その反抗があったからこそ現代に伝わる利休の“侘び”と言う世界観は具体化し得たし、この反抗が無ければおそらく茶は、現代において違った形の文化になっていたのでは無いかと考えられる。
このキッカケはというか、決断は間違いなく
路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ベシ
所謂、一期一会の言葉を残した
山上宗二の死がキッカケだったと思う。
宗二は利休の弟子であり、秀吉は信長の茶頭であった今井宗久・津田宗及・千利休の3名を召し抱え、さらに山上宗二ら5人を加えて「御茶頭八人衆」とした。序列においても4番目という高位に位置していた。
しかし、性格に難あり。
権力に結びついた高級サロンの文化になった茶道は「茶道のための茶道ではない」と批判、自分の信念を曲げない人物であり、さらに嘘をつけない、思ったことをすぐ口にする性格だったことも手伝い、秀吉の怒りを買った。
そして師匠に対しても「山を谷、西を東と 茶湯の法度を破り、物を自由にす。但宗易(利休)一人の事は目聞なるに依て、何事も面白し。平人 宗易を其尽似たらは、邪道と云々。茶湯にては有間敷者也。」などと苛烈な批判を展開している。
純粋な茶人・アーティスト宗二は、茶頭としては、速い段階で秀吉の元を出奔?追放の処分を受けている。
しかし秀吉小田原御陣の時、北条家茶頭を務めていた宗二は秘密裏に利休に面会した。
弟子を思う利休は秀吉への取り成しをし、一旦は許しをもらうのだが…
「秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし」
と、後の文献が書き残すように、秀吉の逆鱗に触れるようなことを再度言い、残虐な殺され方をした。。この場面に間違いなく利休はいた。直接殺害現場にいたとは思えないが、同じ時間、同じ場所には間違いなくいたのである。。
利休は宗二の死から10ヶ月後の天正19年2月13日、同年2月28日 切腹した。
この10ヶ月間に茶の世界の本質は完成し、黄金の茶室は秀吉露悪趣味の象徴的造作物と変質したのだと私は思う。それほどこの10ヶ月は利休の茶の完成には大きな意味がある。
ある意味それまでの目利きや芸術的創作行為など、この死して完成させたものに比べれば如何程のことも無い。
信長から始まる利休の茶という芸術構想はかなりのスピードで上り詰め、秀吉時代に大きな価値観の変質を余儀なくされる。芸術の域から、宗二曰くの社交を中心にした高級サロンへ。。
信長が許容した独立性は閉塞する。。。。
それまで目をつぶってきた事が…
宗二に対する残虐な刑死が、自らの大きな防波堤になってしまうようでは、面目が廃るだけに留まらず、茶という芸術が壊滅してしまうとかんがえたのではないだろうか??。。
あくまで権力者に媚び諂う事を拒む、頑強な茶人・アーティストである弟子・宗二の生き様は、利休をある場所へ追い詰め、具体的な行為に走らせた。それこそ“死”であり、自身の茶の完成である。今の自分の茶に対する完成を変質変形させることなく不朽の芸術として後世に残す、一種の作品創造の行為として積極的な“死”を選択したのではないだろうか???
秀吉という人間と決別するため、権力者の庇護のもと高級サロンと弟子に批判され続けた状況から抜け出し、確固たる自分の考えで突き詰めた極限の茶の世界に修正するため。。。
そのための秀吉に対する具体的な反抗行為だったのではないだろうか??
黄金の茶室を利休が作ったかどうか分からない現代の認識、秀吉が作ったという認識こそが、
利休が最後に死を持って貫徹し表現した茶の世界の、蓋のように私は感じる。。
そして
黄金の茶室は利休が作ったと思う。。。。

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