2007年01月29日(月)
街道 
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朝7時半に家を出ている。
少し淋しい気持ちが心の片隅にしこりとしてあり、いつかは摩滅するのだろうが、今はしっかりとした硬さがあり、フッした折に気持ちに擦れる感じがする。
所謂、摘出する必要のない腫瘍のようなものだ。。。。
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毎朝7時半に家を出るのは、
今年のはじめに、17年出勤していた社屋を離れ、年末に完成する新社屋へ移るまでの間、東寺近辺にある仮事務所まで出勤しているためだ。。
遠方になり、交通手段も限られ、ダイヤの指示に従わないとイケナイ環境になった、その為の毎朝7時半である。。。
先日、京都市内から車で帰宅したのだが、無意識の内に走りなれた道を辿っており、気付くと通いなれた社屋の前に来てしまっていた。。
あっ、そうか・・この場所とはもう縁がなかった、いや、なくなったんだ。。
と車を停めて気付いた。。。。
フッと見上げると
建物には大きな解体用の足場が組まれ、その上からグレーのシートが全体をスッポリと包んでおり、そのシートの一部隙間から解体の状況が垣間見えた。。
大きな重機、鉄の爪が見るも無残に建物に襲いかかり、建物の三分の一が抉られていた。。
太い鉄骨、血管のように所々から剥き出しになっている配線、肉を抉られたような状態であった。。
見なきゃよかった。。。
薄暗くなりつつあるなか、ザラザラした気持ちを抱えつつ“伏見の街”を後にした。。
その時初めて、いや、改めて気付いた。。
伏見とお別れかぁ。。。
この竹田街道を走る事も、そうないのか。。
思い返すと私は伏見とは深いつながりがあり、よくよく考えると、18歳から今の40歳まで、この街道沿いで人生が展開したような気がする。。
私の本籍は結婚するまで、伏見の両替町にあった。父が育ったのが伏見なのである。物心つくまで住んでいたのは、竹田街道沿いから少し入った長屋のような所で、四歳の時に今住んでいる街に引っ越してきた。。
それから15年後、私は大学に入学するが、やはり竹田街道から少し東に入った龍谷大学に行くのである。そして5年後?(留年したため・・)竹田街道沿いの会社に就職することになる。そう、私はこの街道沿いで約22年間過ごしてきたのだ。。
これは自分の主体的意識で選んだわけではない。只の偶然なのだが、改めて考えるとその縁には不思議なモノを感じる。。。
私は伏見が大好きである。
京都に下町と呼ばれる場所はないが、御所を中心として考えた場合、この伏見は下町と考えられなくもない。京都という所はやはり基本は洛中を指す。所謂、御所を中心とした“碁盤の目”で形成された街区だ。
伏見も現在の住所では京都市となっているが、元々の感覚では純然たる京都とは少し違う。京都と呼べる南端は七条通り以北、京都の人がいう上(かみ)からである。事実、私が小さい自分、伏見以南の人達は京都の中心部に行く際、“京都にいく”と言っていた。。。これが本来の感覚なのである。
しかしながら伏見は只の洛外ではない。
京都が不思議なのは、日本史の重要部分が幾層にも重なりあっているところである。平安、鎌倉、室町、戦国、幕末…通り一つにそれぞれの時代の匂いと歴史上の逸話が残っていたりする。それは、同じ通りでも各時代の諸々が道上に残っている。。僅かな面積しかない洛中に。。。
そんな歴史中、伏見は洛中から離れてはいるのだが、日本史、特に戦国以降重要な部分が多く存在する街である。。
この街は豊臣秀吉が作った街で、京都中数少ない城下町(と呼べる規模の)である。
大阪、大津との交通の要衝であり、その中心に秀吉築城の伏見城が存在した。太閤が亡くなった場所で、その後家康が執政を行った場所でもあり、戦国後期、日本の政治の中心となった街なのだ。
そういう歴史に誇りがある。。
ふしみ・・という名だが
一説によると“ふじみ(不死身)”から来ていると聞いた事がある。
豊臣秀吉がこの地を隠居地に選んだのは、勿論交通の要衝という事もあるのだが、この“不死身”にも少なからず関わりがあったようだ。。。
伏見の南部は、今、京都の人でも知らない人が多いが、巨大な湖が存在した。もともと伏見南端は宇治川に接しており、この水路が大阪と繋がっているのだが、宇治川の水が大量に流れ込んだ低地に湖を形成していたのである。この湖を“巨椋池(おぐらいけ)”と呼んだ。。
昭和初期に国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が行われ、現在では湖らしきものはない、京都南端最大の田園地帯と変化してしまった。
伏見はこの巨大な湖を挟んで、宇治の平等院と向き合っている。西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)、平等院。。。
秀吉は平等院を死の世界、そして宇治川を三途の川と見たて、伏見を現世と考えたらしい。
そして、三途の川を渡る事の無い“不死身”を体現するが如くにこの地に築城したらしいと聞いた事がある。。。
死後の不安が常に付き纏った権力者の夢の後でもある伏見の街。。。
後年、明治天皇が行幸され、この京都南端を見下ろす伏見山上からご自身の陵墓となされたのは、この地を好きな私にとっては誉れである。。
今でも城郭跡の名残をのこした鉤型の堀、水路が城下町の中にある。
そして、冶部、景勝、等の戦国期に活躍した大名の名前、舞台、両替,等の往時の名残をとどめた町名が今も活きているのである。。
この街の南端から北に走っているのが竹田街道であり、この街道が御所に向けて洛中に入っていくのである。。京都は全国からつながる各街道の終点であり始点でもある。それ以外はない。1,000年以上、日本の中心であったからだ。
坂本竜馬が寺田屋で襲撃され薩摩屋敷に逃げ込む際に駆けたのもおそらくこの街道であろう。
私はこの幾人もの歴史上の偉人が駆け抜けた街道沿いで人生の半分を過ごした事になる。。。
その街道と先日別れた。。。
しかし、冷静に考えると、移動するから街道なのである。
生活する眼前に広がった道は、道でしかない。。。
何かを目指し、次々と視界から消えて行く街並みが存在するから“街道”と呼べるのである。
そう言う意味では、今回伏見と分かれた事により、初めて私にとって竹田街道は街道となった。。。
生を受け、大学という大人の門をくぐり、そして職を得た街道。。
これまでの人生を投影した道程。。。
今、視界の後ろに過ぎ去って行った。。。
私のこの先の街道は一体どのように広がるのだろうか??
何処へ向かうのだろうか??
明確な目的地、約束の場所に向かう時期が来たのかもしれない。
この数日、松下幸之助の残した詩が心に突き刺さる。。
「道をひらく」
自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない。
二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。
せまい時もある。
のぼりもくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たして良いのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、今歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。。。。。
.......
さらば竹田街道。。。
ありがとう伏見。。。

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