2005年07月26日(火)
◆◆◆ 壷中天 ◆◆◆
amazon.co.jpで◆◆◆ 壷中天 ◆◆◆を探す
自分が成長したというよりも経験の差なのかなと考える。もちろん次元が変わっているので同じ悩みが降ってくる事はないため、常に余裕をもって客観的に考える事が出きるのだろう。
しかし仕事の場合は少し違う。自分が経験した事を後輩がもしくは部下がというように完全に客観的になれない状況が介在する。本質は一緒なのだが、環境がその時々によって違い、本筋の解決策は同様なのだが枝葉の部分で躓く事もある。
悩みは尽きる事がない、人間は喜怒哀楽という感情を持ち合わせているがその全てに渡って悩みは存在する。悩みの背面に喜びが存在し、悩みと同居する怒り,怒ってしまう悩み、悩み哀しみ、哀しみ悩み、悩みからの解放策としての楽しみ,,悩む楽しみが存在する。
学生時分は基本的にはバーチャルな世界観で議論をする。いわゆるシミレーションである。同じ悩みに対しても、ネガティブな捉え方をするもの、ポジティブに向かうもの、と両極存在するが意外とネガティブそれも厭世的な考えが出てくることが多かった。
私の学生時分の世相はバブル真っ最中でした。どこか享楽的なにおいが現実世界に漂い、労せずして豊満な世界が約束されているような錯覚がありました。そのせいなのか楽観的で無責任な厭世観があったのは事実です。
あるとき後輩と話をしているとき、テーマとして宇宙の話がでました。宇宙という言葉は知っているが、では実態としての宇宙というと説明がつかない。大体規模がわからないし、“果て”エンド“終わり”があるのか無いのかが解らない。地球にても昔は水平線の向こうは滝になっているという論理が基本であったように、現在一般の我々からすると宇宙の果てについての観念は水平線の向こうは滝という論理と同様である。そんな事を科学としてではなく哲学的論理で考えるとものすごく深みにはまってしまう。地球創生からの時間のなかで我々の人生は、時計に例えると1秒にも満たないという話がよくあるが、ものすごい虚無感を感じてしまう。人に言わすとだから人間の存在はちっぽけで、その人間の悩みなんか鼻くそほどの価値もないという、相対性のかけらもない比較にて論理を展開する。
しかし私はかえってその話は虚無感と虚脱感を感じてしまう。
私が宇宙の実態の無い大きさに悩み虚脱感を感じていると後輩は、
「先輩!仮に宇宙の果てが数値として先輩に理解出来たとしましょう」
「その宇宙の範囲が実は水槽なんです!」
「?????」
「実はガリバーみたいな大きな人間がその水槽をインテリアとして家に飾ってるんですよ
そして地球やいろいろの星を栽培というのか飼育というのか、とにかく鑑賞してるんですよ!なんか壮大でしょ!へっへっ」「その上にまだ大きなガリバーみたいなやつが。。。。。」
やっやめてくれー その手の話は苦手だよーー!!
人気blogランキングへよろしくお願い致します。

リンク元(referer)
コメント
はてなに追加
MyYahoo!に追加
livedoorClipに追加
Googleに追加
みなづき
上海
夏草の賦 
人気blogランキングへ
ブログ王へ
週刊ブログランキング













.jpg)





