2008年04月21日(月)
泣く女 
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私が初めてピカソを見たのは
友人の家に遊びに行った
14歳の時だった。
今から30年近く前。。
壁に泣く女が貼られていた。。
その時まで正直ピカソを知らなかった。知らないことを友人から嘲笑された。
しかし、この時、私の中で何かが弾けた。それは今でも鮮明な感覚として残っている。
絵の具という物質。
もともと物質として有する性格を平面上で融合し、網膜上の記憶との整合をいかに精緻に再現するか、その際、作業過程で感覚的に許される主観的要素、所謂、感情を合致させる平均的な認識、赤は情熱的、青は冷静で静謐な感じというものや、客観的事象から記号化された印象、緑の木々に人は癒される、光の陰影により現れる外形の構造や時間、その光が持つ人間生活や過去から持ちあわす歴史的認識との合致などを作業過程上の僅かな隙間に混入するということに対し絵画の感動部分の肝が存在し、そこに絵画鑑賞の大きな価値?絶対的判断の序列?いや、ある種の呪縛に私は縛り付けられていた。
しかし、数学の回答を導きだすための公式を理解することと同じ仕組みで、それまでの絵画鑑賞上至高の部分・表現と呼んでいたものは、実は、数学においてはあくまで回答を求める設問でしかなく、本質的な問題の解答とは、いかに導くのかという回路を探す、作る、見つけるということではないか?と気づいたのである。
それまでの、絵画鑑賞法とは、問題をただ眺めていたにすぎない。そしてマニュアルに基づいたアンサーであって、なにを求めているか?なにが真理かなど無関係であった。答えがすべてであり、それ以上のものはなかった。
しかし、本来、前にした問題を眺めることで本質的な解決はない。問題の仕組みを考察しそれを読み解く公式を探し出すのが実は答えを導きだすのと同義であるということに大いなる発見を見出したのである。
例えば数学はノートに記載しその回答を求めていく。しかしそのノートに書き遺されたものに価値はない。あくまで発見された公式があり、その公式を駆使し、そこから導き出された回答にこそ価値あるものとなる。だからそこにどのように導き出しかただったかという過程を記録したノートという物質そのものには何も価値はない。価値があるのは回答に導く見えない公式なのだ。
そこに大きな価値が存在する。
そしてこの公式は、実は今例えた数学のような公式ではなく、実にあいまいであり、対象とした問題すらもあいまいであり、答えと今、書いたが、それは答えという終着ではなく、そこから連鎖的に次の疑問が発生し新たな公式の発見を余儀なくされるという限りない広大無辺な解放感が得られる人間の可能性と人間・社会・歴史に対する想像の究極を示すものとして私は受け入れられた。
枕は物質的形状やその材質が価値の基準ではない。
いかに高質な安眠を与えられるのか・・その夢を売ることが価値の源泉であり、人間生活、人間が平等に持たされる肉体的循環という制約を付加された時間支配に対するストレスからの精神的解放提案に最大の表現部分が存在する。
この当時も今でも、専門家やその手の世界に身を置く人からすればピカソはかなりクラシックな表現者であり、今や古典化しつつあるのだが、一般の日本人の絵の感覚、特に難解なものの代名詞は“ピカソみたい”と表現され、ある意味今だに最先端?もしくはそこから止まったままであり、それ以上に普及するほどの革新的情報拡大がない。
そういう状況が、ピカソをわけのわからないという言葉の比喩として定型化させているのだが、私の眼には特別難解なものには映らなかった。偉そうに読み解けた、、という事ではないが、私には普通の風景画、人物画となんら変わらないものとして向き合えた。
見えるものとしてある部分だけでいえば着色した平面でしかない。簡単なイコール作業で私の中では整合した。眼球と記憶というメカニカルな作業としてなんら違和感は生まれない、そういうことである。
カエルや蛇は知識としいうベースがあり、その生体を視覚にとらえれば認識はできる。しかし、そのとき、なぜこの生き物はこのような模様や柄を皮膚上に有しているのか?またなぜこのような内容を不可避的に背負っているのか?という部分を眼球と記憶の作業には混入しないであるのと同義である。
ピカソの絵画理論は、その後書物から知識を得た。その理論の構造を知った時に特別衝撃を受けることは無かった。なるほどぉ・・この程度であった。二次元と三次元、その間の表現技術を行き来していた歴史の中に、三次元、特に視覚認知の中にない構造的内容を、二次元という限界の世界に、三次元的要素の想像的現実として組み込んだ内容は確かに面白い。が、それだけでしかない。それはある種の絵画的な表現の可能性の仕様書ではあるが、所謂芸術という根本的な表現の革新性か?というと私はさほどの事とは思わなかった。
それは体の治癒にそれまで処方していた薬に新たな薬が見つかった、しかも研究した分野とは全く違う想像もしていなかった所から偶然発見された、もちん発見者は確信的に研究発見しての結果ではあるが、全体的な印象としてそういった位置づけのような感覚に近いものであったように思う。薬という対処療法の一端の変革的驚きはあっても、根本的な治癒もしくは根絶に絶大な効果を得たのとは全く相違し、明らかな解決策の提示ではない。
それは、癌を抑え込む特効薬なのか?癌にならない予防薬なのか?
先に述べた無価値なノートという物質に需給の関係がその後の結果として表れ、そのノートが公式を記録する“歴史的産物”としての価値を生み出した。
しかし確信的な価値とは、残されたノートではなく、発見された公式でしかない。
そして、そこに本来”現代美術”の
大きな換金性が潜んでいるのだ。。
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