2005年11月19日(土)

jump,3 

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おそらく彼が“世に出る”までの経路は、龍馬がゆくのようなものではなかったと思う。もう少し泥臭い現実的な、ともすればゲスな手段が多々あったんじゃないかなぁと思う。実際問題として日日生きていくための金銭収入が必要であり、収入を得る手段が存在しないと活動その物ができない。だから大きな権益の“手先”的仕事は、主義主張を殺してでも行うという最低限の行動原理が必要となっていたはずだ。
それはイデオロギーを背景にした過激派のようなものではなく、最終目標が俯瞰した大きな価値変遷をおぼろげながらもにも存在させた形で。
坂本龍馬が生きていたら“あの三菱”のようなものを作れたであろうか?
無理だと思う。
もっと政商の色が強い組織になっていたであろうし、では小佐野賢治や児玉誉士夫のような利己的なフィクサーのような存在になっていたか?というとそれも少し違うような気がする。
しかし、黒幕であることは間違いなかったかなぁとは考える。
権力の中枢に擦りより、権力中枢の食指が動くプランを立て、権力の中枢に良い様に使われるフリをしながら実は権力を使い、自らの大志ではなく野望を完遂しようとしたのが彼の本質的行動原理だったのではないかと考える。
この権力中枢が動くプランこそが大事であり、その洞察力が優れていた。藩という小さな国家のシガラミがないからこそ見えるものが存在したんだと思う。そして大きな儲けを提示できるプレゼンテーション能力に長けていた。手先からプランナー、もしくはコーディネーターに変貌していく過程が所謂“小説”の英雄像に変貌していったんだとも考える。
彼は決して自身が武士という階級ではないということを強く意識していたんではないだろうか。便宜上武士になっていただけで、本質的には武士などはイデオロギーの仮装でしかなく、イデオロギーだけで行動していても飯は食えないというか、生きていくためという本質にいち早く気づいたんじゃないだろうか。民主主義なんかも知識としておぼろげに知っていただろうが、最終的には資本形成が今後の世の中を大きく動かす鍵になる最大の原動力で、その資本を国益、藩ではなく国家にかなった形で生み出す人間こそが世界と対等な国家観を有する人材じゃないかと考えていたんじゃないだろうか。政治・軍事という世界標準の武器を携えないと、資本形成上の侵略ができない。
だから、藩という概念が行動原理の西郷・木戸という存在を、坂本は案外“馬鹿”にしていたんじゃないだろうか?
アメリカやイギリスは、幕末に本質的には何をしに来たんだろうか?軍事占有ほどコストがかかって儲からないものはないと言う事を彼らは良く知っていただろう。坂本龍馬もわかっていたように思う。
坂本龍馬もやはり織田信長同様に重商主義にいち早く気づいた人間だったと思う。経済流通に今後の大きな藩を超えた国家全体の飛躍的な価値変遷の源泉が潜んでいると察知したんじゃないだろうか。そして搾取する利は藩ではなく国家の方がより多くの利と大儀が潜んでいると。
大政奉還もその後の国体思想も、政情安定が国益の一義で、薩摩や長州の倒幕論理、それは感情から発するものでしかなく、強度の虚無感を抱いたんではないだろうか?
薩摩や長州は革命。
しかし坂本の心中は。。。
“そんなつまらんこと!儲からん!”
彼、坂本の誤算はそう言った意見を言える自分の大きさを計り間違えたこととタイミングがズレたこと、権力を有するものに理解者がいなかったことだ。
ひょっとすると最後の将軍がその存在だったかもしれない。間違い無く論理性という面では気付いていたはずだ。大政奉還の一手の裏に渦巻く野望が。
あくまで薩摩や長州にとっては、自分達の組織から下請け仕事をだすだけの相手であって、
対等に物を言える立場ではないと、坂本龍馬を見ていた。
薩長同盟の裏書も、第3者で隠密的立場からでしかない。
坂本も最終的なバックボーンを出身の土佐に求めたが、あくまでプロパーとは見られなかった。それは薩摩や長州と同様であった。
しかし確実に彼らは坂本龍馬を恐れた。
暗殺する必要があった。
坂本龍馬の次ぎの構想を恐れた。それは倒幕の邪魔な考えを吹聴する存在だけではなく、実際の抵抗勢力と見える部分が存在したんじゃないだろうか?
間違い無く武器商人としてはこの時代の相手方イギリスの認識も高かったであろうし、体制・反体制の戦略思想の分析もできたであろう。何より彼らの都合の悪い部分も情報としては危険過ぎるくらい知っていたであろうと想われる。最終的には軍事面に置いては“勝”というコネクションがあり幕府艦隊という存在があった。幕末は背景としてイギリスとフランスの代理戦争という様相が多少なりとも存在する。
だから“世界の海援隊”という構想が最終的な自分を活かす道だったんじゃないだろうか?西郷や木戸に対しての皮肉として。
この国にいたら階級闘争に明け暮れ、常に自分は主体的な行動を取れない。
海外で資本を貯え、今度はアメリカ、イギリス、日本を天秤にかけるようなフィクサーになるような構想があったんではないだろうか?
軍艦をもった商人として。。。。
今の時代でも一緒だと想う。ホリエモンや三木谷という人間が従来の実業で今のような勇名を馳せたであろうか?ITというのは、あくまで手段であり結果論だ。そこしか時代の突破口がないというのも真理だと考える。では彼らの資本形成途上はどのようなものか?基本はファイナンスだ、いわゆる金貸しではないか。金貸しには必ず金主が存在する。名も無い存在に“キレイな”金が流れるか?
ホリエモンが近鉄買収に動いた時、皆はその存在を以前から知っていただろうか?そのとき初めて知った者が多かったのではないだろうか。このポイントが示すものはなんだろう?
大資本が寡占する状況のなかでJUMPを計るには、最終的には自身の野望を剥き出しに抗していかなくては、その存在の主体性は発揮できない。しかし敗れた。大資本と規制や訳のわからない論理に。しかし次の闘いはどうだろう、あれは勝利ではないか?
痛快事ではないだろうか!
そして選挙という体制側の臭いをぷんぷんさせて最近登場した彼は?そして水面下で動く広島との関係とそれを背後で糸を引く政治的な存在は?あきらかに“恐ろしい存在”もしくは“看過できない存在”に変貌していないだろうか?外資や怪しげなファンド、政治家との関係をちらつかせながら!
でもホリエモンなのだ。ここがミソで、キモなのだが、魅力が存在する。明け透けな人間的魅力が、明らかに三木谷とは違うのである。現在と直近の三木谷の出来事は痛快事だろうか?ナベツネは三木谷の事を“ミキタニ君”と呼ぶが、ホリエモンの事を“どこの馬の骨”と呼ぶ。この違いは?
現代でアンケートを取ると、歴氏上の人物で人気が高いのは、織田信長と坂本龍馬だ。
織田信長は別として坂本龍馬は昭和40年代学生運動の若者達の指示が高かった。しかし背景は現代の人間が支持するものとは明かに違う。昭和40年代の若者は国家権力を坂本龍馬が相手にした幕府に見たてているが、現代の坂本龍馬指示の像は、マイノリティーな存在から、時代の趨勢を判断し、大きな存在を内部外部から利をもって動かすという側面ではないだろうか!
既得権益の打破を現在は待ち望んでいる。しかも痛快に!
既得権益の権益を享受しても、最終的野望が国益に合致する形で存在するなら、具体的破壊工策には大儀が存在する。そういった本質的人間像が坂本龍馬の場合、現在に合致する部分があるんではないだろうか?
清濁鯨飲でき、知恵のあるカリスマとして民衆を酔わせれる人物を待ち望んでいるじゃないだろうか?
もう情緒的なキレイゴトには皆飽きたんじゃないだろうか?
権力が示す権威は、ある程度その時代の基準として機能する。しかしその機能を理解出来た者はその存在を目標にするような馬鹿な思考性を持たない。あくまで手段としか見ないだろう。
高らかに“JUMP”するためには。。。。。
それはイデオロギーを背景にした過激派のようなものではなく、最終目標が俯瞰した大きな価値変遷をおぼろげながらもにも存在させた形で。
坂本龍馬が生きていたら“あの三菱”のようなものを作れたであろうか?
無理だと思う。
もっと政商の色が強い組織になっていたであろうし、では小佐野賢治や児玉誉士夫のような利己的なフィクサーのような存在になっていたか?というとそれも少し違うような気がする。
しかし、黒幕であることは間違いなかったかなぁとは考える。
権力の中枢に擦りより、権力中枢の食指が動くプランを立て、権力の中枢に良い様に使われるフリをしながら実は権力を使い、自らの大志ではなく野望を完遂しようとしたのが彼の本質的行動原理だったのではないかと考える。
この権力中枢が動くプランこそが大事であり、その洞察力が優れていた。藩という小さな国家のシガラミがないからこそ見えるものが存在したんだと思う。そして大きな儲けを提示できるプレゼンテーション能力に長けていた。手先からプランナー、もしくはコーディネーターに変貌していく過程が所謂“小説”の英雄像に変貌していったんだとも考える。
彼は決して自身が武士という階級ではないということを強く意識していたんではないだろうか。便宜上武士になっていただけで、本質的には武士などはイデオロギーの仮装でしかなく、イデオロギーだけで行動していても飯は食えないというか、生きていくためという本質にいち早く気づいたんじゃないだろうか。民主主義なんかも知識としておぼろげに知っていただろうが、最終的には資本形成が今後の世の中を大きく動かす鍵になる最大の原動力で、その資本を国益、藩ではなく国家にかなった形で生み出す人間こそが世界と対等な国家観を有する人材じゃないかと考えていたんじゃないだろうか。政治・軍事という世界標準の武器を携えないと、資本形成上の侵略ができない。
だから、藩という概念が行動原理の西郷・木戸という存在を、坂本は案外“馬鹿”にしていたんじゃないだろうか?
アメリカやイギリスは、幕末に本質的には何をしに来たんだろうか?軍事占有ほどコストがかかって儲からないものはないと言う事を彼らは良く知っていただろう。坂本龍馬もわかっていたように思う。
坂本龍馬もやはり織田信長同様に重商主義にいち早く気づいた人間だったと思う。経済流通に今後の大きな藩を超えた国家全体の飛躍的な価値変遷の源泉が潜んでいると察知したんじゃないだろうか。そして搾取する利は藩ではなく国家の方がより多くの利と大儀が潜んでいると。
大政奉還もその後の国体思想も、政情安定が国益の一義で、薩摩や長州の倒幕論理、それは感情から発するものでしかなく、強度の虚無感を抱いたんではないだろうか?
薩摩や長州は革命。
しかし坂本の心中は。。。
“そんなつまらんこと!儲からん!”
彼、坂本の誤算はそう言った意見を言える自分の大きさを計り間違えたこととタイミングがズレたこと、権力を有するものに理解者がいなかったことだ。
ひょっとすると最後の将軍がその存在だったかもしれない。間違い無く論理性という面では気付いていたはずだ。大政奉還の一手の裏に渦巻く野望が。
あくまで薩摩や長州にとっては、自分達の組織から下請け仕事をだすだけの相手であって、
対等に物を言える立場ではないと、坂本龍馬を見ていた。
薩長同盟の裏書も、第3者で隠密的立場からでしかない。
坂本も最終的なバックボーンを出身の土佐に求めたが、あくまでプロパーとは見られなかった。それは薩摩や長州と同様であった。
しかし確実に彼らは坂本龍馬を恐れた。
暗殺する必要があった。
坂本龍馬の次ぎの構想を恐れた。それは倒幕の邪魔な考えを吹聴する存在だけではなく、実際の抵抗勢力と見える部分が存在したんじゃないだろうか?
間違い無く武器商人としてはこの時代の相手方イギリスの認識も高かったであろうし、体制・反体制の戦略思想の分析もできたであろう。何より彼らの都合の悪い部分も情報としては危険過ぎるくらい知っていたであろうと想われる。最終的には軍事面に置いては“勝”というコネクションがあり幕府艦隊という存在があった。幕末は背景としてイギリスとフランスの代理戦争という様相が多少なりとも存在する。
だから“世界の海援隊”という構想が最終的な自分を活かす道だったんじゃないだろうか?西郷や木戸に対しての皮肉として。
この国にいたら階級闘争に明け暮れ、常に自分は主体的な行動を取れない。
海外で資本を貯え、今度はアメリカ、イギリス、日本を天秤にかけるようなフィクサーになるような構想があったんではないだろうか?
軍艦をもった商人として。。。。
今の時代でも一緒だと想う。ホリエモンや三木谷という人間が従来の実業で今のような勇名を馳せたであろうか?ITというのは、あくまで手段であり結果論だ。そこしか時代の突破口がないというのも真理だと考える。では彼らの資本形成途上はどのようなものか?基本はファイナンスだ、いわゆる金貸しではないか。金貸しには必ず金主が存在する。名も無い存在に“キレイな”金が流れるか?
ホリエモンが近鉄買収に動いた時、皆はその存在を以前から知っていただろうか?そのとき初めて知った者が多かったのではないだろうか。このポイントが示すものはなんだろう?
大資本が寡占する状況のなかでJUMPを計るには、最終的には自身の野望を剥き出しに抗していかなくては、その存在の主体性は発揮できない。しかし敗れた。大資本と規制や訳のわからない論理に。しかし次の闘いはどうだろう、あれは勝利ではないか?
痛快事ではないだろうか!
そして選挙という体制側の臭いをぷんぷんさせて最近登場した彼は?そして水面下で動く広島との関係とそれを背後で糸を引く政治的な存在は?あきらかに“恐ろしい存在”もしくは“看過できない存在”に変貌していないだろうか?外資や怪しげなファンド、政治家との関係をちらつかせながら!
でもホリエモンなのだ。ここがミソで、キモなのだが、魅力が存在する。明け透けな人間的魅力が、明らかに三木谷とは違うのである。現在と直近の三木谷の出来事は痛快事だろうか?ナベツネは三木谷の事を“ミキタニ君”と呼ぶが、ホリエモンの事を“どこの馬の骨”と呼ぶ。この違いは?
現代でアンケートを取ると、歴氏上の人物で人気が高いのは、織田信長と坂本龍馬だ。
織田信長は別として坂本龍馬は昭和40年代学生運動の若者達の指示が高かった。しかし背景は現代の人間が支持するものとは明かに違う。昭和40年代の若者は国家権力を坂本龍馬が相手にした幕府に見たてているが、現代の坂本龍馬指示の像は、マイノリティーな存在から、時代の趨勢を判断し、大きな存在を内部外部から利をもって動かすという側面ではないだろうか!
既得権益の打破を現在は待ち望んでいる。しかも痛快に!
既得権益の権益を享受しても、最終的野望が国益に合致する形で存在するなら、具体的破壊工策には大儀が存在する。そういった本質的人間像が坂本龍馬の場合、現在に合致する部分があるんではないだろうか?
清濁鯨飲でき、知恵のあるカリスマとして民衆を酔わせれる人物を待ち望んでいるじゃないだろうか?
もう情緒的なキレイゴトには皆飽きたんじゃないだろうか?
権力が示す権威は、ある程度その時代の基準として機能する。しかしその機能を理解出来た者はその存在を目標にするような馬鹿な思考性を持たない。あくまで手段としか見ないだろう。
高らかに“JUMP”するためには。。。。。

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